チェン・シャオユー監督「舟に乗って逝く」(★★★)(2025年06月14日、キノシネマ天神、スクリーン1)
監督 チェン・シャオユー 出演 ゴー・ジャオメイ、リウ・ダン、ウー・ジョウカイ
中国の水郷が舞台。かつては人は舟で行き来していたという。予告編の映像が美しかったので、見る気になった。予告編どおり美しい映像だった。そのなかで気づいたことがある。
中国は広大な土地である。日本や台湾とは違う。広大な土地(水)といっしょに暮らせば、遠近感は違ったものになる。台湾の侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の遠近感は小津安二郎と似たところがある。室内の広く見せるためにわざと中景をつくり遠近感を生み出す。一点透視の構図を活用する。チェン・シャオユーはまったく違う。一点透視を拒む。わざと壁が交わる部分(直角の部分)を画面の中に取り入れ、視界を遮る一方、壁にある開かれた扉から別の部屋を見せる。こんなことばがあるかどうか知らないが、「多点透視」なのである。ほかに部屋はあるが、それは一点透視の奥行きではなく、左右へ拡散していく感じ。そして、これが、この映画では非常に効果的である。
ガンで死期が迫った母がいる。アメリカ人と結婚し、かなり裕福な生活をしている娘がいる。彼女にはこどももいる。息子もいるが、仕事はあまりはっきりしない。娘(姉)ほど裕福ではない。つまり、成功していない。その三人の視線は出会いはするが、いっしょに何かをめざして動くわけではない。何か、拡散した感じになる。それぞれに生き方が違う。それが「死期が迫った母」のいる場(家)のなかで、壁に開かれたドアのように別々な「小部屋」を見せる。そういう風景を見せながら、かならず「母の場/死」へもどってくる。「家」へもどってくる。こういう「画面の構図」は小津や侯孝賢にはなかったと思う。
そして、「家」の外には「家」とは違った「構図」が広がっている。目を前に向ければ、そこには「地平線/水平線」が広がっている。近景、中景、遠景という区別を導入し「遠近感」をつくるわけではない。川岸に草がはえている、その岸を中景としてつかみとろうにも、その中景から視線が消えていく遠景の果てまでの「距離」が想像できない。ただ、景色が広がっているだけである。
この対比が、非常におもしろい。
それは単に空間的な「遠近感」を超える。「家」の外に広がっているのは「時間」である。「歴史」である。そこには「時代」の変化があり、広がり方(家と外とのつながり方)は昔と今では違っているはずなのだが、それは「家」のなかになる親子、兄弟のつながり方とは違った動きをしている。その「家の外の時間」の影響を受け、「家のなかの時間」も動くのだけれど、「家のなかの時間」はなぜか「家のなかの多角的な時間(家族の数だけある時間)」とは違う。「家族のなかの多角的な時間」を浮き彫りにする「背景」になっている。これは、水郷が「家のなかの家族の多角的な関係」の「背景」になっているのとおなじだ。「家族のなかの多角的な視点」を明確にするための「背景」として、どこまでも広がる「地平線/水平線」がある。
息子が、大学に行きたかったわけではない、勉強して(姉のように)金儲けをしたかったわけではない、父のように舟に関係する仕事をしたかった、船大工になりたかったという夢を、最後に、ひとりで紡いでいるところがとてもよかった。ひとは、いつでも自分の生まれた場所へ、生まれた時間へ帰っていく。これは、中国の「夢」かもしれない。中国は世界の中心。だから外へひろげなくても十分。
人間の長い歴史のなかで、いろいろな民族が(国民が)、自分の土地だけでは満足できずに、他の土地を侵略している。日本も古代に朝鮮半島へ侵略したし、豊臣秀吉も侵略をこころみた。昭和天皇は、言うまでもない。アメリカは(というからアメリカへわたったヨーロッパの強欲な人間は)、アメリカを東から西まで侵略したあと、太平洋をわたって日本、韓国、台湾、フィリピンを支配し、いまは中国に焦点をあてている。しかし、中国は、そういうことはしていない。中国内部において、政治システムを強化はしているが、よその国へは侵略していない。「台湾有事」とアメリカは騒いでいるが、台湾はもともと「中国」。別の政治体制をめざす人が集まっただけのこと。だから「中国」との統一をめざすひとも台湾には大勢いる。中国から出た人は「中国人街(チャイナタウン)」はつくるかもしれないが、「国家」としては侵略しない。何かしら、つながるものがあると思う。余談だが、思ったことなので、書いておく。