李相日監督「国宝」(2) | 詩はどこにあるか

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李相日監督「国宝」(2)

 吉沢亮が赤い襦袢姿で屋上で踊るシーン。私は、あの踊りが即興なのか、それとも歌舞伎の演目の一つかわからないまま感動したことを、前回のブログで書いたが、歌舞伎通のひとが、あれは「娘道成寺」と「鷺娘」の踊りの一つであると教えてくれた。それを知って、この映画が傑作であることをさらに確信した。
 吉沢亮にとって、「娘道成寺」「鷺娘」は単なる歌舞伎の「演目」のひとつではなく、彼の「肉体」そのものなのである。前半に、歌舞伎の稽古をするシーンで「骨で覚える(骨に覚えさせる)」というようなせりふがあるが、そうやって「肉体」で覚えたものは、もう脱ぎ捨てることはできないのである。こころというか、精神というものは、たぶん脱ぎ捨てることができる。何といっても、人間の脳は自分に対して嘘をつくことか得意である。しかし、「肉体」は嘘をつけない。(一度泳ぎを覚えたひとは海や川へ落ちれば泳いでしまう。十年間泳いでいないから、溺れて死んだ、というようなことは起きない。)そして、そうやって作り上げられた「肉体」は、もう「こころ」そのものなのである。ほかのことができないのである。その、自分に対して嘘をつけなくなった「肉体」のせつなさ、かなしさが、あのシーンにはあふれていた。歌舞伎を知らなくても、その「肉体」のせつなさ、かなしさは、「あ、ここには私の知らないものが動いている」という感じで私を揺さぶったが、それが、あれが「娘道成寺」「鷺娘」であると知って、さらに強くなった。ああ、いいシーンを見た、という実感が強くなった。ここでは、別なことばで言えば「吉沢亮歌舞伎」が生まれているのである。「吉沢亮歌舞伎」が生まれる瞬間が、あの屋上のシーンなのである。
 このシーンが強烈なのは、それが「ストーリー」ではないからである。それはたとえば映画のなかの「曽根崎心中」のお初が徳兵衛に心中の決意を訪ねるシーンは、ストーリーとしても感動的だし、そこに左足を失った横浜流星がからんでくれば、どうしたって感動してしまう。そこには「ことば」で説明できるストーリーがある。つまり、ほかの役者がやったとしても、そのシーンは感動的になる。吉沢亮が横浜流星の壊疽で変色した足を自分の首にあてるシーンでこころを動かされなかったら、もう、それは「曽根崎心中」を見る必要はない。近松門左衛門を読む必要はない。
 ところが、あの屋上のシーンでは「肉体」だけしか存在しない。ストーリーは、あえていえば、吉沢亮は歌舞伎を忘れることができなくて、観客いない屋上で、ちゃんとした衣装もつけずに「娘道成寺」「鷺娘」を踊っているということになるが、それだけのストーリー(説明)で、あのシーンには感動できない。どうしても、そこに歌舞伎にとりつかれてしまった人間の「肉体」がないといけない。歌舞伎にとりつかれて、その歌舞伎を破っている人間がないと成り立たない。
 歌舞伎を人間の「肉体」が破る、という点では、田中泯を起用し、「鷺娘」を踊らせたのもすばらしい。田中泯の手の動きは、たとえば玉三郎の「鷺娘」の手の動きとは違うだろう。(私は見ていないので、当てずっぽうでいうのだが)。そして、そこがすばらしい。「伝統歌舞伎(教科書歌舞伎)」を破壊して動く「田中泯歌舞伎」がある。田中泯にしかできない「鷺娘」である。
 人間国宝の「田中泯歌舞伎」を、「吉沢亮歌舞伎」が人間国宝になって、あたらしく時代を開いていくというのが、大げさに言えばこの映画の結末だが、そういうことを納得させるのが、あの屋上のシーンである。
 で、ついでに言えば。
 なぜ「娘道成寺」と「鷺娘」か。「娘道成寺」はひとりで踊ることもあれば、ふたり、三人で踊ることもある。しかし「鷺娘」はひとりで踊る。そこにポイントがある。吉沢亮は横浜流星とライバルのようにして競い、また協力してスターになっていくのだが、相棒を失っても生きていけるのである。横浜流星との違いがそこにある。それをはっきりさせるために「鷺娘」が必要なのである。
 いま私が書いたように、この映画は、肝心なポイントを「ことば」ではいっさい説明しない。役者の「肉体」そのものに語らせている。これが映画の醍醐味である。歌舞伎を「骨で覚える」ということばは出てくるが、吉沢亮は歌舞伎を骨で(肉体で)覚えていたとは、ひとことも「ことば」では説明しない。ただ、吉沢亮の「肉体」に語らせている。なぜ「鷺娘」なのかも、説明しない。
 さらに、もうひとつ補足。
 ソフィアン・エル・ファニの撮影がすばらしいのは、ソフィアン・エル・ファニが「知識」をもとに撮影していないからである。もちろん撮影に当たって歌舞伎のことは勉強しただろうが、それを「知識」として生かしているのではなく、撮りながら発見しているからである。歌舞伎はこう撮るものという視点にとらわれず、歌舞伎を発見しながら撮っている。そういう驚きと喜びがあふれている。たとえば、役者の衣装を早変わりさせるシーン。黒子が、こんな動きをして、こんな風に歌舞伎をささえているということを発見する喜び、あ、これをだれかに伝えたいというどきどきした気持ちがあふれている。
 私はときどき新聞で「歌舞伎評」を読むが、一度としておもしろいと思ったことはない。理由は簡単である。「評論家」が「知識」のなかに、見た歌舞伎を落とし込んで書いているからである。「知識」は書かれているが、見たときの感動が書かれていない。「知識」と「ストーリー」を結びつけて、「矛盾がなかったから、よかった」と書いているにすぎない。
 もちろん「知識」はあった方がいい。この映画でも「娘道成寺」「鷺娘」の「ふり(動き)」を知っていれば、感動はより強くなる。しかし、それを知らなくても、役者の肉体を見ること、カメラワークの違いを見ることができれば、それで感動できる。「娘道成寺」「鷺娘」を知っていても、役者の「肉体」の動き、それを追いかけてつかまえるカメラの喜び(という共同作業)を感じることができなければ、「ストーリー」に感動したとは言うことができても、映画に感動したとは言えないだろう。「ストーリー」への感動なら小説を読めば十分だろう。