李相日監督「国宝」(★★★★★)(2025年06月09日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン5)
監督 李相日 撮影 ソフィアン・エル・ファニ 出演 吉沢亮、横浜流星、寺島しのぶ
映像が美しい。どっぷりと主観に沈み込むというよりも、何か客観的なところ、情緒に溺れないところ、感情を押しつけないところがあって、これはだれなんだろうなあと思ったら、撮影は外国人だった。何がとはいえないけれど、音楽がこれでもかこれでもかと畳みかけるシーンも、音楽に酔わされることはない。むしろ、もっと控えめな音楽だったらもっといいだろうなあ、と感じた。
撮影にもどって……。歌舞伎役者の話であり、歌舞伎役者が美しく見えるのは、その肉体の動きが「むり」をしているからである。これは前半の、少年の稽古シーンによく表現されているが、そのときの「肉体」のとらえ方も、なんとなく日本人の(私の、といった方が正確かもしれない)見方と違う。踊りが「スポーツ」のように見える。肉体運動として把握する視点でカメラが動いていると思う。田中泯の肉体のとらえ方が、とても鋭角的でおもしろい。歌舞伎役者(女形)を演じているのだが、女形(歌舞伎役者)の枠をはみ出す部分を、しかし、これが女形なんだという感じでつかんでいる。指の動きは、もうそれだけで一つの「宇宙」という感じ。この切り取り方はすごいなあ。
ストーリーは、いかにも小説という感じの部分、横浜流星が糖尿病で足に壊疽を生じ、それが原因で片足を切断するというような、かなり無理な部分もあるのだが、伏線として父が糖尿病のため舞台で死んだという事実があって、なかなか巧妙だ。その片足であるハンデを逆手にとって「曽根崎心中」の見せ場があるのだけれど、わかっていても、なるほどなあと感心する。これも、またカメラの切り取り方がいい。「曽根崎心中」にどっぷりとひたりこまずに、あくまでそれを演じている役者の意識を浮き彫りにしている。前半の「曽根崎心中」とは、おなじシーンなのに、まったく違った役者の精神の動き、肉体の動きをつかんでいる。後半の(クライマックスの)「曽根崎心中」は、もう「曽根崎心中」ではなく、歌舞伎役者を生きる吉沢亮、横浜流星の「人生」(生きざま)そのものに感じられる。「曽根崎心中」を見ていることを忘れてしまう。これは、歌舞伎ならば「失敗」だが、「国宝」は「映画」であり、テーマは歌舞伎ではなく歌舞伎役者なのだから、これでいいのである。これしかないのである。
だから逆に、歌舞伎から離れたシーンが、歌舞伎に近づく。旅芸人に身を落とした吉沢亮が屋上で踊るともなく踊る。もしかしたら歌舞伎の一シーンなのかもしれないが、ことばにはならない心情が肉体を動かしているシーンが非常に印象に残る。だれのために踊っているか。いま私は「心情」ということばをつかってしまったが、自分のこころのためというよりは、歌舞伎に入り込んでしまった「肉体」のために踊っている。「肉体」のなかに残っている歌舞伎を解放するように踊っている。背景が歌舞伎の舞台ではないだけに、あるいは稽古場ではないだけに、とても強烈に「肉体」の悲しさがあふれている。
この、なんと名づけていいのかわからない吉沢亮の「踊り」からあと、後半は、いやあ、スクリーンから目が離せない。舞台は歌舞伎の世界なのだが、歌舞伎を超越して、「芝居」を選んでしまった人間の「肉体」の、どうしようもなさが見事に描かれている。
歌舞伎にかぎらず、もし何かを選んでしまったら、そのひとは、もうふつうにはもどれない。選んだものに、身を任せるしかなくなる。それは何も芸能とか芸術だけではなく、物理とか数学でもおなじなのだと思う。あるいは小説とか詩とか映画でもそうなのである。何かを選んでしまうことは、何かに選ばれることでもあり、もう、それにしたがって生きるしかないのである。
脱線したが……。
テーマが歌舞伎だからそう思ったのかもしれないが、寺島しのぶが歌舞伎を見るシーン(歌舞伎の稽古を見るシーン)には、「ああ、私が男だったら、この役がやれたのに、悔しい」というような目つきがある。それが、この映画に、えたいの知れない深みを与えている。こういう見方は、映画から脱線してしまうのだが、そういう脱線を誘う不思議な力がこの映画には満ちている。
また、この映画には歌舞伎の「裏」の様子も描かれていて、なかなかおもしろい。奈落から競り上がってくるときの役者が見る劇場の風景とか、早変わりのシーンの着物の脱がせ方、着せ方など、客席からはわからない部分もてきぱきと映像化してみせる。そして、それが舞台の(スクリーンの)歌舞伎そのものを邪魔していないのもいいなあと思う。これもソフィアン・エル・ファニの力によるものだろうと思う。