フランシス・フォード・コッポラ監督「ゴッドファーザー」(★★★★★)(2025年06月03日、キノシネマ天神スクリーン2)
監督 フランシス・フォード・コッポラ 出演 マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン
何回見たか思い出せないが、何回見てもおもしろい、はずだったが。
いや、おもしろいのはおもしろいのだが、今回みた映画館は席数が100足らず、スクリーンも小さい。そのため、かなり、つまらない。それは映画の責任ではなく、映画館の責任といえる。
この映画の一番の魅力は暴力描写、殺人描写の美しさである。
テーブル(あるいはカウンターだったか)の上に置いた手をナイフで突き刺され、手を使わせないようにして首を絞める。舌が口からはみ出る。目が見開かれたまま死んでいく。レストランのテーブル、目の前で男が射殺される。どう対応していいかわからない(逃げることも思いつかないまま)、射殺される警官、一発目は手元が狂い喉を撃たれた後、とどめの一発が額を射抜く。血は飛び散らず、穴が見える。首を絞められ、苦しくて車のフロントガラスを蹴る。フロントガラスが蜘蛛の巣状に亀裂が入り、割れていく。足が(靴底が)、飛び出る。そういうときのアップの映像は、大きなスクリーンで見てこそ美しい。
日常では見ることができないシーンが、巨大なスクリーンに展開するとき、そこには何とも言えない愉悦がある。
だからといえばいいのか。
ジェームズ・カーンが高速道の入り口で乱射され死んでいくシーンというのは、それほどおもしろくはない。死んでいく肉体のアップがないからだ。ジェームズ・カーンはへたくそだから、アップの演技ができないので、こんな殺され方をしたのかもしれない。
また、この映画の漆黒の黒の美しさも、大きなスクリーンの方が効果的だ。スクリーンのなかの闇がスクリーンからあふれだし映画館に侵入してくる、観客を(私を)その場に取り込んでしまう感じは、小さいスクリーンでは、なんというか、覗き見している感じになってしまう。小さいスクリーンや明るい部屋で見るモニターでは、あれは私がいまいる世界とは別の世界だと、変に安心してしまう。
でも、でも、でも。
やっぱりおもしろい。
アル・パチーノやロバート・デュバルが真面目に演技しているのに、マーロン・ブランドは「手抜き」というか、そんなに真剣じゃない。どうせ観客は演技なんか見に来ない。私の顔と肉体を見に来るだけ、と開き直っている。あの顔は、口のなかに綿を含んでたまませた顔であり、ある老人ぽい腹はやはり詰め物をした腹だろう。「演技」はそれで十分、後はマーロン・ブランドが動けばそれでいい、そう思っているのだろう。それが不思議な「自由さ」を発散していて、とてもいい。「役」にしばられない「自由」なひろがりがあると、なんともいえず楽しい。華がある。
この自由な演技があって、アル・パチーノ、ロバート・デュバルの真面目な演技が生きてくる。有名なレストランでの射殺の寸前の、アル・パチーノの目の演技(そのアップ)は、少しやりすぎかもしれないが、緊張感があっていい。マーロン・ブランドにはできないだろうなあ、と思う。
今回の上映で残念だったのは、スクリーンの大きさと同時に、結婚式、シチリアの屋外シーンの色。私の記憶では、もっと色彩と光が反乱していたような気がするが、今回の映像はぼやけてあいまいだった。デジタルなのに、フィルムのときよりあまい感じだった。これは、私の視力が低下しているためにそう見えたのかもしれないが。