池井昌樹『理科系の路地まで』(30)(思潮社、1977年10月14日発行)
「黒板列車」。池井は「黒」を旧字体で書いているが、ここではふつうに書かれている「黒」つかって引用する。「鉄(くろがね)」も旧字体をつかっているが、私のパソコンは旧字体をもっていない。
鉄とふるい煤でかためられた汽罐車が目に見えるのは
中身にとぼる燈のためです
燈はあかるい蛾の複眼線香花火のちょうちんあかるい蜜
柑や苹果や水蜜のあかりで出来ています
「煤」「蛾」というふつうは「美しい」といわれないことばが同居しているが、基本的に美しいことばが印象に残る。異物がまぎれこむことで、透明な感じがいっそう強くなる。
次の部分は、どうだろうか。
ものをたべたり喋ったりするくちびるの皺の肉花のよう
にきたなく見えます
「きたなく」と池井ははっきり書いている。
「きたない」ものを池井はなぜ書いたのか。
「きたない」ものが好きなのだ。「きたない」のなかに動いているものが好きなのだ。
どこかで書いたことがあるが、本庄ひろしと私と池井と三人で会ったことがある。池井は「きたないものを食べに行こう」と言った。わざわざ「きたないもの」を食べたくはないが、私たちはしかたなく池井についていった。路地裏の、小さな店。かなり、きたない。食べ物以前に店がきたない。池井は、私たちの意見をきかず、豚足を注文した。豚足が目玉らしい。それを池井は「うまい、うまい」と言いながら食べた。かじりついた。池井にとって「きたない」は「内部が充実している」ということである。整理されていない。整頓されていない。
それをそのまま食べる。食べて、池井の肉体が、その消化器官が、食べたものを分解し、整理する、ということなのだろう。強い胃腸が「きたない」を「うまい」にかえていく。その肉体の力を楽しんでいるようだった。
詩もおなじなのだ。美しいときたないを区別しない。池井の見たものが(ことばの対象が)充実していればいい。入り組んで、「きたない」としか見えないものも、池井の文体のなかに配置され、動き出せば、それはエネルギーになる。
池井にとって、ことばが動くということが、美しいに通じるのだ。ことばが動かなければ「きたない」はほんとうに汚い。動けば「きたなくない」のである。
「みしらぬ駅」は青森へ旅行したときの作品だと思う。「鮫肌鉄道」という詩があったと記憶している。ことばが重たい蒸気機関車のように、どこまでも動いていく連作詩だった。この詩集には収録されていない。この「みしらぬ駅」に、その雰囲気が残っているように感じる。
もうひとすじどこまでもつづいている線路がある
廃止鉄道なのかいつまでたってもなにもとおらない
その線路の消えているゆくえの闇のうえに
どうしても落ち込めない沼のようなそらはまだうすらあ
かるく
ちすじのうっすらとすけてみえるみかづきがとぼってい
る
池井以外に、その「廃止鉄道」を見たものがいるかどうか知らない。それが、あるかどうか知らない。しかし、池井が「ある」と書いたとき、それは「ある」のだ。そして、それは「どこまでもつづいている」。池井は「どこまでもつづいている」「ある」を書いている。