池井昌樹『理科系の路地まで』(29)(思潮社、1977年10月14日発行)
「獣肉屋」はどんな肉を売っているのか。
なにのにくですか
熊の肉です 赤いです
これは、わかりやすい。しかし、
なにのにくですか
鳥の肉です 嘴のところです
なにのにくですか
はいえなです 臭い肉です
なにのにくですか
これは肝です てりてりの
なにのにくですか
馬です くらい背中
なにのにくですか
これは肝です きみどりな わからない
ふるい
ふるいうみのにおい
そらのにおい
これは
これはらんたんです
にくいろの
あかりのなかの幾多の貌……
「肉」ではないものがあらわれたと思ったら、「らんたん」のなかに「にくいろ」が出てきた。「あかり」は「赤い」はずだ。この「循環」を気持ちいいと感じるかどうか。
二字下げの部分に、こう書いている。
嘔吐したいほど思い出せない思い出したい巨大な肉の色たちが
昏い汗をかいた地層のようにうつむいている
「思い出せない」と「思い出したい」が固く結びついている。その「接続」が先の引用の部分にもなるのだ。そして、もし「事実」があるとすれば、それが「切断」できないもの、「切り離せないもの」ということだろう。
なぜか。次の一字下げの連に、こう書いている。
うねつくうなもにうごめくけだもの
ふるい
ふるい陸にあがれずおわったけだもの
けだものたちのたしかにうごめいてる
此処は
僕のからだの内部
ぼくの母さん
ぼくの父さん
ぼくの姉さん
ぼくの母さん
ぼくの
がらんとくらい獣肉屋裏の
ざらざらの床に蹠をしろくひやして
胴震いするほど僕はうれしい
私が(ほかの読者が)、気持ち悪いといってもしようがないのだ。それは池井の「からだの内部」なのである。そこにはいろいろなものが「うごめいている」。そのとき、そのいろいろなものは個別の名前をもっとあらわれてはいるが、個別ではない。すくなくとも「切り離せない」。切り離すと、死んでしまう。そういう性質のものだ。