池井昌樹『理科系の路地まで』(28) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『理科系の路地まで』(28)(思潮社、1977年10月14日発行)

 「竹の塚」のなかほど。

ここらあたり
底には水の化石がとろとろながれ

 という行がある。「水の化石」に驚かされる。しかも、それは流れるのである。硬質なものが、とろとろと流動する。
 その先に、こんなことば。

なにかわけのわからない字の書かれてある導(しるべ)が一ツ
わたしのために
草ぐさの闇に立たされてるのだが

 「わたしくしのために」という表現を、池井は、これ以前につかったことがあるのか。わからないが、この「わたくしのために」は、ここだけではなく、ほかの場所にも隠れているのではないか。
 たとえば。

ここらあたり
わたくしのために
底には水の化石がとろとろながれ

 ふつうなら起きないことが「わたしくしのために(池井のために)」起きている。なぜか。池井に書いてもらいたいからである。何かが池井に働きかけているのだ。
 イメージがつかめない行にであったら、そこに「わたくしのために」を補って読めば、すべてが理解できるようになるかもしれない。
 池井は何かを書いているのではない。何かが池井の肉体のなかにやってきて、その肉体の内部が詩に変化し、ことばになって外へ出ていく。そこに書かれていることは、池井が存在することによって、はじめて存在する。そのとき「わたくし」と「世界」がいれかわる。

竹の塚
蜜に酔ひ
かすていらに腹をみたせば
こうばしいあたりの植物を歯でしごき
紫水晶(アメジスト)のにほふいっぱいな露の熟れたので
たんまりとわが舌の木乃伊を冷やす

 たぶん最後に「わたくしのために」があるが、それは書かれていない。

 「石地蔵様」は「石」であるが、それは「とろり」と不定形になる。「とろり」と書いていないが、直前に読んだことばが、まぎれこんできて私を揺さぶる。

ほのあほひ狭霧のやふな いんねんのたへずうごいておる
ちのみちに
御地蔵様は石 わらうこともある
なまぐさすぎる笑いが 御地蔵様を石にする
おとのせぬおもたい疣のやふなわらい
わらえば 眼蓋やら唇やら眉間やらに
ないぶから 膿のやふな色彩が うっすらとすけてくる

 「ないぶから」は文脈上は「石地蔵」の内部からになるが、私は「池井の内部から」と読めてしまう。石の地蔵を書いていると、池井が石の地蔵になり、動き始める。
 「わたくしのために」を補うと、その感じがわかりやすくなるかもしれない。

ほのあほひ狭霧のやふな いんねんのたへずうごいておる
ちのみちに
御地蔵様は石 わらうこともある
わたくしのために
なまぐさすぎる笑いが 御地蔵様を石にする
おとのせぬおもたい疣のやふなわらい
わらえば 眼蓋やら唇やら眉間やらに
ないぶから 膿のやふな色彩が うっすらとすけてくる

 人間の内部(肉体の内部)には、いろいろなものが動いている。それは個別の名前をもつが、どこかでつながって動いている。つなぎ目は、あるけれど、ない。池井の詩のことばのように。