及川俊哉『えみしのくにがたり』 | 詩はどこにあるか

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及川俊哉『えみしのくにがたり』(詩と思想新人賞叢書12)(土曜美術社出版販売、2018年02月20日発行)

 及川俊哉『えみしのくにがたり』は、困ってしまった。「波の神、海のきらめきの神が語った歌」が巻頭の作品。東日本大震災のことを書いている。そこにこんな一行がある。


麻都我宇良尓 佐和恵宇良太知


 そして、カタカナのルビがついている。私はカタカナ難読症(と、勝手に名づけているのだが)で、カタカナが読めない。聞いたことがあることばなら読めるが、聞いたことがないことばのカタカナは、まったく読めない。
 正確に転写できるかどうかわからないが、そのカタナカは、こうである。


マツガウラニ サワエウラダチ


 目がちらちらして、頭の中が混乱する。何度か目で追いなおしていると「ウラ」という音が二回繰り返されているが、これは先に「宇良」という漢字を読んでいるからわかることであって、漢字を読んでいなければ「ウラ」が繰り返されていることにも気がつかないだろう。
 さらに、それにはこういう「読み方」が追加されている。


(ふだんはうららかな松川浦にさえ津波が騒ぎ群れ立って)


 最初の「宇良」は「浦」か。水が打ち寄せるところ。「松川」という川と海が出会うところなのだろう。次の「宇良」は及川の註釈(?)によれば、「波」になるのかなあ。「宇良」は「波が打ち寄せるところ」、「宇良」は「波」。なんとか、ここまでは、わかる。
 でも「佐和恵」は何? 「さえ」? 一字あまるなあ。「佐和恵」とつづけて読むのではなく、「佐和/恵宇良」と読むのかも。「恵」は「めぐむ/あたえる」、受け身で「めぐまれる/あたえられる」というのもあるかな? 「多い」という意味もあるかもしれない。「知恵」というのは「知」に「めぐまれる」、「知をあたえられる」「知が多い」。そうすると「恵宇良」が「多い」、あるいは「大きい」。つまり「津波」か。
 「太知」と「立つ」なんだろうなあ。
 及川は「騒ぎ群れ立って」と書いているから「佐和恵」は「騒ぐ」かもしれない。「さわさわ/ざわざわ(佐和)」で「いっぱい(恵む/恵まれる)」。そして「佐和恵+宇良」が「騒ぐ/波」になり、それが「立ち上がる」と「津波」ということかもしれない。
 どこからどこまでがどのことばか、どういう意味なのかわからない。
 わからなくてもいいのかもしれない。ことばは、最初からわかるものではなく、聞いているうちにじょじょにわかってくるものだから。
 つづいて、こういう行がある。(漢字、ルビ、口語訳?を別々に引用する。)


於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈良之

オギデイガバ イモバマガナシ
 
(置いて行ったら、愛しい人が悲しむだろう)


 ふーむ。これは「東北弁」の「口語」か。音が濁っているから、そう考えるのだが、では「麻都我宇良尓 佐和恵宇良太知」はやはり東北弁(口語)だったのか。「太知/ダチ」は「東北弁」の「濁音」? でも標準語でも「つまさきだち」と「立つ」の音が濁ることがあるからなあ。

 カタカナでつまずいて、「口語(東北弁)」なのか、書きことば(標準語)なのかもわからない。「音」が書かれているはずなのに、それが「声」として統一されていないと感じる。
 及川は統一しているのかもしれないが。
 先日読んだ、芥川賞の、若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」と同じような、いやあな感じがする。「肉体」がなじんでいかない。
 なぜこんな変な漢字(古事記の原書か、万葉集の表記のような漢字)の使い方をするのか。そこに「東北弁(おそらく)」までまじえるのか。
 東日本大震災が「肉体」の「歴史」を揺さぶった。太古からのいのちを揺さぶった。揺さぶられて、肉体の奥から、古いことばが目覚めてきて動き出した、ということなのかもしれない。
 でも。
 そういう「古いいのち」って、「書きことば」? 「麻都我宇良尓」というのは、「音」があって、それに「漢字」をあてはめて記録したものだ。こういう方法は「古代」の方法であって、それは「声」の問題ではないね。
 音(声)と表記は切り離せないということなのかもしれないけれど、うーん、なじめない。ついていけない。

 
オギデイガバ イモバマガナシ


 という「音(声)」は、いまも東北で「生きている」と思う。「口語」として語られ、聞いて共有されるものだと思う。
 でも、東北のだれが、


於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈良之


 という「漢字表記」を共有するだろうか。もちろん「学問」のあるひとはわかるかもしれない。読んで「音」にすることができるかもしれない。でも、大震災でかなしんでいる多くのふつうのひとは? 「婆」という文字が出てくるからついつい書いてしまうが、嘆き悲しんでいるふつうのおじいさん、おばあさんは、これを読める?
 私は疑問に思う。

 そこからさらに、こう思うのだ。
 及川は何のためにこんな表記をまじえたのか。
 「いのち」、あるいは「ことば」は「いま」突然ここにあるのではなく、長い歴史をもっている。「いま」であっても、そこには「過去」が生きている。「過去」とつながっている。大災害が奪い取れなかったのは、この「つながり」である、と訴えたいのかもしれない。
 でも、これは「頭」で整理したときに生まれる「論理(意味)」に過ぎないなあ。
 で、そういうことは、及川の「肉体」の「力」というよりも、私には「頭」の力に思える。私はこういう古い歴史を知っています、こういう表記もできます、「頭」をみせびらかしているようにも見えてしまう。
 私は無知だから、私を基準にしてしかことばを動かせない。
 こういうことば(表記)といっしょに私の「肉体」を動かせない。
 いやだなあ、と思う。

 及川は、こんな行も書いている。


浜の石を拾い、面影のある石を拾ってみます。
海の中を漂う愛しい人を思うと、冷たい海の中の愛しい人を思うと、
こちらも冷たく身が冷えてくる気がする。
拾った石を手で揉んだり、胸に掻き抱いたり、いくらかでもあたためてみたいと思う。
海からのぼる朝日が、海をあたためてくれればいいと思う。


 ここは自然に読める。「肉体」がいっしょに動く。全編がこういうことばで語られているならいいのに、と思う。