池井昌樹『理科系の路地まで』(25) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『理科系の路地まで』(25)(思潮社、1977年10月14日発行)

 「六月幻想」のなかに二字下げの連がある。そこだけで一篇の詩のようだ。二字下げずに引用する。

汽罐車のふえのねが
ときおり
つゆのかたちをした
みかんいろの液体の燈ともす錘を吊し
そんなあまいつめたいきれいな飴が
澄んだ瞳(め)の
うつむいたぼくの耳のおもてで
しゃりらん しゃりらん ふえてゆく

 「汽罐車」は不思議な表記である。昔は、こう書いたか。よくわからないが、いまは「機関車」と書くだろう。池井の書く「汽罐車」は「汽車」から派生していると思う。蒸気機関車が目に見えてるから驚いてしまう。池井が「汽車」を、あるいは「蒸気機関車」をどうとらえていたかが、「客観的存在」として迫ってくる。「客観的存在」というのは「学校文法」とは関係がない。「学校文法」がととのえた形式にあっているかどうかは関係がない。「学校文法」を突き破ってあらわれる「客観的存在」に出会ったとき、私は感動する。「学校文法」の表記と詩のことばを比較し、詩のことばを修正しても何にもならない。池井は詩を書き始めたころから、池井自身の「客観的存在」、その「存在形式」に忠実だったのだ。
 「つゆのかたちをした/みかんいろの液体の燈ともす錘を吊し/そんなあまいつめたいきれいな飴」は表記だけではなく、その存在形式そのものが「中学生(あるいは高校生)の物理」とは相いれないだろう。しかし、そこには池井がつかんだ「客観的事実」がある。その「きれいな飴が/澄んだ瞳の/うつむいたぼくの耳のおもてで/しゃりらん しゃりらん ふえていく」とき、視覚と聴覚、さらに触覚、味覚が融合し、区別がなくなる。「色」「音」「手触り」「味」も融合する。そこに「肉体」が生まれ、「世界」が生まれる。「肉体」も「世界」も、それぞれ目、耳、手と部分を取り出して名前をつけることができるし、「蜜柑色」「液体」「あまい」「つめたい」と分類することができるが、それは「分類」し、「個別」にしてしまうと、実は、動くことかできない。みんなつながって動くところに「いのち」がある。そういう「いのちの存在形式」を池井は池井の「客観」として描いている。池井は、池井に忠実なのである。正直なのである。

 「中耳炎の郷(くに)」に、とてもおもしろい行がある。

掘れ込んだ横丁の奥にもそもそとうごいていたのは
絵の具にまみれたひとつのにくたい
うごいていたのは古びたひとつのにくたいであった
にんげんだってうごくのだ
むきぶつのなかでにんげんだってうごいているのだ

 「むきぶつ(無機物)」を「学校物理」の素材と仮定するなら、「にんげん/にくたい」は、「学校物理」を突き破って(あるいは、叩き壊して)動いている「いのち」という「客観的存在」だろう。