デイヴィッド・リーン監督「ドクトル・ジバゴ」(★★★★)
監督 デイヴィッド・リーン 出演 オマー・シャリフ、ジュリー・クリスティ、ジェラルディン・チャップリン、ロッド・スタイガー、アレック・ギネス
この映画には1か所、どうしてもわからないシーンがある。
オマー・シャリフとジュリー・クリスティがモスクワから遠く離れた街で再会する。そしてベンチに座って話をする。そのとき、スクリーンの左側に水たまりというより、小さな池がある。これは、何? いや、池でいいのだけれど、なぜスクリーンに映っている? 映す必要がある? ただの(?)地面ではだめ?
これが、わからない。ここに池があるという「美意識」がわからない。
デイヴィッド・リーンの映画は映像が美しい。この映画では、タイトルバックに白樺の林の絵がつかわれているが、その絵も美しい。ロシアの広大な風景が美しい。カナダで撮ったようだけれど、雪の山が美しいし、雪が美しい。空気が美しい。
雪原の果てしなさと、そこにある空気の透明感(人間を拒絶した純粋さ)は、それを砂に置き換えると、そのまま「アラビアのロレンス」になる。広い空間の美しさ、そこに存在する空気の美しさがデイヴィッド・リーンの映像の特徴である。
小さなもの--たとえば列車の小窓からオマー・シャリフが眺める月、雲に隠れて、またあらわれる月が美しい。(これは「インドへの道」で、水にうつった月を掬おうとするするシーンにも通じる。)
こんな美しい「世界」のなかで、なぜ、人間のしていることは、こんなにも矛盾して、苦しいのか。デイヴィッド・リーンの映画を見ると、いつもそう思うのだが……。
あの、池--あれは美しくない。広大でもない。とても違和感がある。なぜ、あのシーンに池が必要なのか。何かの象徴なのか。
それにしても、ジュリー・クリスティは美人だなあ。不思議な不透明さがいいなあ。ロッド・スタイガーが、その不透明さを見抜いて、ぐいと自分にひきよせてしまうところ、それをジュリー・クリスティが拒絶できないところ--これが、この映画を支えている。デイヴィッド・リーンの映画には、何かしら美しさと不純の誘惑が同居している部分があって、それが映像を強くしていると思う。
ジュリー・クリスティとロッド・スタイガーの「高潔ではない強さ」が、鏡の朱泥のように、この映画を輝かせている。