私は石である。詩人によって書かれたことがある。小倉金栄堂の前の歩道で拾われ、つれてこられた。詩人の手を離れ、公園の池の水のなかに沈んでいく。水への入り口は無数にある。しかし出口はひとつしかない。これは詩人が考えたことだ。石が水のなかへ侵入した分だけ、水が内部から押し上げられ、波紋になって広がっていく。詩人は、それを見ている。水の皺、水が笑った、と詩は閉じられた。私は、脇役だった。水に入るところまでしか書いてもらえなかった。だから、きょうは私がことばになって、石について書く。石が沈むとき、石のまわりについていた空気が小さな気泡になって離れ、浮いていく。ひとつ。みっつ。私が沈む方向とは逆に、ななつ、やっつ。水を貫いてとどく光を浴びながら。ここのつ。「さようなら」。私は心のなかで言う。ゆっくり前転してみる。横にもまわってみる。遠く、藻がゆらぐあたりは暗い。沈むつれて体が重くなる。沈んでいる自転車が見えた。なぜ、こんなところに。水のなかにも埃があるのか、地上にあったときよりも、やわらかな埃につつまれている。私は、車輪の輻にぶつかる。埃が舞い上がる。そして、ゆっくりと下りてくる。私をつつむつもりなのか。魚は、いない。車輪をたたいたときの音は、もう消えてしまった。
「この、自転車とは、だれのことだ」と読み終わったことばが聞いた。石が車輪をたたいた音は消えたのではなかった。沈黙。質問することばの声に消されたのだった。