谷川俊太郎『別れの詩集』(15)(「谷川俊太郎 お別れの会」事務局、2025年05月12日発行)
「感謝」2024年11月17日の朝日新聞に掲載された。この詩が掲載されたときは、谷川俊太郎は死んでいた。まるで死を予期して書いたかのような詩である。予期していたのだと思う。
目が覚める
庭の紅葉が見える
昨日を思い出す
まだ生きてるんだ
今日は昨日のつづき
だけでいいと思う
何かをする気はない
どこも痛くない
痒くもないのに感謝
いったい誰に?
神に?
世界に? 宇宙に?
分からないが
感謝の念だけは残る
この詩を朝日カルチャー講座で読んだ(2024年11月18日)。このとき受講生は、谷川が死んだことを知らない。(私は田原から連絡をもらっていたので知っている。)受講生のひとりが、「ひとは最後に『ありがとう』って言って死にますね」と語った。そして、多くの人が、そうしたことを実際に体験している。また、その体験を書いた詩も多い。
谷川も死を予感して「感謝の念だけは残る」と書いたのだと思う。
そういう意味では、この詩は平凡である。大詩人の「絶筆」なら、何かもっと劇的なことばが死知れていてもいいのではないか。
しかし、この平凡なところが、いいと思う。
「お別れの会」で、「みなさんも自分自身で谷川俊太郎の詩集を編んでみてください」とだれかが言っていた。たぶんこの詩集を編んだ刈谷政則だろう。私が谷川の10篇の詩を選んで編むとしたら、この詩は絶対に入れないだろうと思う。「絶筆」という付加価値はあるかもしれないが、私は何度も読み返すことないと思う。谷川の詩のなかで優れたものとも思わない。ほかのひとにぜひ読んでもらいたいとも思わない。でも、そういう詩が、実はいい詩なのかもしれない。
和泉式部の和歌がある。私は和泉式部の歌が大好きだ。しかし、百人一首に収録されている「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」は平凡な歌だなあと思う。どうしてこの歌が百人一首のなかに入っているかわからない。たぶん、平凡なところがいいのだろう。ひとの気持ちというのは、きっと平凡なものなのだと思う。だれでも同じことを考えるのだと思う。
谷川俊太郎は、死ぬ直前、ほんとうに「当たり前」の「平凡」な人間になったのだと思う。ほかに書きたいことばはあったかもしれない。けれど、それを捨てて、最後は「平凡」を選んだのだ。詩は、生活のことばに負けるためにある。詩は、ふつうのひとのことばに負けるためにある。それを実践しつづけた詩人なのだと思う。
詩集の「あとがき」のようして、「100年後へのメッセージ」が掲載されている。
100年後のみなさん、
まだ鉄火巻きなんて食べてます?
まだ地ビールなんて飲んでます?
まだ詩なんて読んでます?
100年後生きてないから答えがわかんないのが残念です。
いま、幸せですか?
最後の一行が、いいね。私も100年後は生きてはいない。そんな先のことを考えてもしようがない。「いま、幸せ」と言えるように生きればいい。どんな詩のことばよりも、「いま、幸せ」という生活のことばがいちばんすばらしい。
谷川俊太郎は「感謝(ありがとう)」を残した。そのことばを受け取ることができて、「いま、幸せ」と言おう。谷川に「ありがとう」と言われるようなことなど、私は何もしていないが。