ウディ・アレン監督「アニー・ホール」(★★★★★) | 詩はどこにあるか

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ウディ・アレン監督「アニー・ホール」(★★★★★)

監督 ウッディ・アレン 出演 ウッディ・アレン、ダイアン・キートン

 ウッディ・アレンとダイアン・キートン、なぜ別れたんだろうなあ。セラピーで、ウッディ「セックスは週に3回。少ないんだ」、ダイアン「セックスは週に3回。多いの」というのが二分割のスクリーンで展開される。このあたりが原因か。セックスしている途中で、ダイアンのこころがベッドから離れ、椅子に座ってふたりを眺めている、それにウッディが気づくというおもしろいシーンもある。
 こういうシーンに限らないが、いろんな場面で「ことば」が交錯する。ふたりの最初のデートでは、口で言っていることばと同時に、「こころの声」が字幕で表現される。つまり、のべつ幕なしで「しゃべっている」というのがこの映画だね。映画館の列で、後ろの男がうんちくをガールフレンドに語っているのをうんざりして聞いている、ついついダイアン相手にその男の批判をするとか、道行く人に「恋愛談義」をふっかける(答えを求める)というのも、まあ、ことば、ことば、ことばで人間の「多様性」を描いていて、おもしろい。うんざりする、という人もいるかもしれないけれど。
 で。
 そういうことと関係するのかもしれないが、私の一番好きなシーンは、ことばが切れた瞬間。二人が海老を茹でようとする。床で海老が動いている。それをつかんで鍋に入れる。この「騒動」の途中でダイアンが笑いだす。この「笑い」が、どうも演技ではない。途中で我慢できずに噴き出してしまう。リアル、なのだ。そのあとも芝居はつづいてゆき、ダイアンはウッディの写真を撮ったりするのだが。
 (このシーンは、別な女との間でも繰り返されるが、このとき女は笑わない。ウッディをばかにして見ている。男の癖に海老一匹もつかむことができないのか、という感じ。これもリアルだけれど、でも芝居だね。演技だね。)
 この、芝居ではなく、リアルというのはこのシーンだけだと思うが、他のシーンもそれを「狙っている」感じがする。映画ではなく、プライベートフィルムだね。その、なんともいえない無防備な感じが美しい。
 ダイアンの、おじいちゃんの古着(だと思っていたけれど、今回見たらおばあちゃんの古着と言っていたような気がする)を組み合わせたファッションも好きだなあ。黒いベストと白いシャツ、ネクタイ、ベージュのパンツ。とても「自然」な感じ、気取らない感じがプライベートフィルムを感じさせる。
 コカインを仲間と楽しむことになって、それを少し鼻先につけたら、むずむず。思わずくしゃみをしてしまって、コカインが空中に散ってしまう、というところまでゆくと、まあ、「やりすぎ(つくりすぎ)」という気もしないでもないが。でも、笑いだしてしまう。
 ラストシーン。ダイアンとの別れが決定的になって、そのあと。それまでの映画のシーンが断片的につなぎ合わされる。ここは海老で笑いだすダイアンのシーンと同じように大好きだ。「ニューシネマパラダイス」のラストで、検閲でカットされたキスシーンをつなぎ合わせたフィルムを上映し、見るシーンがあるが、あれと同じ。「幸福」はいつでも限りなく美しい。あ、いまもウッディの肉体のなかには、あのシーンが残っているのだ、それを忘れることは絶対にないのだとわかる。胸が熱くなる。
 いやあ、ほんとう、なぜ別れたんだろうなあ。
       (中洲大洋スクリーン3、2018年01月17日)