アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督「悪魔のような女」(★★★★)
監督 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 出演 シモーヌ・シニョレ、ベラ・クルーゾー、ポール・ムーリス
アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督は、「ふたり」の関係を描くのがうまいなあ。「恐怖の報酬」も、いろいろあるが、結局「ふたり」の関係だった。「ふたり」が同性愛みたいな親密感をもって動くというのも特徴かなあ。
この映画では、シモーヌ・シニョレとベラ・クルーゾーは、男の「愛人」と「妻」なのに、妙に「親密」である。男に対する「憎しみ」で一致し、殺人計画を練る。シモーヌ・シニョレが常にベラ・クルーゾーをリードする形で動く。その「力関係」というか、「かけひき」が、先日見た「アンダー・ハー・マウス」よりも、なぜか「濃密」に感じられる。おいおい、そんなことろで感情(憎しみ)を共有するなよ、とでもいえばいいのか。フランス人の奇妙なところは、それが憎しみであっても「共有」してしまえば「親密」になるという関係が起きることかなあ。愛し合っていなくても、何かが「共有」できれば親密になる。「共有」に飢えている(?)のがフランス人かもしれないと思う。
だから(?)、自分が「共有」していたものが、誰かに奪われるととても複雑になる。いわゆる「三角関係」のことなんだけれど、こんな変な三角関係が成り立つのはフランスだけだろうなあと思う。
この映画(ストーリー)の「出発点」は簡単に言ってしまえば「三角関係」。そのなかで誰と誰が「共謀」するか。「共感」をもって動くかというのは、ふつうは、すごく単純なのだけれど、フランスには「三角関係」というものがない。ばとんなときでも「一対一」、つまり「ふたり」の関係。動くときは「ふたり」がペア。
ね。
ネタバレになるけれど、シモーヌ・シニョレとベラ・クルーゾーは「ふたり」で動いているとみせかけて、実はシモーヌ・シニョレとポール・ムーリスが「ふたり」で動いていたというのがこの映画。そして、はじき出された「ひとり(ベラ・クルーゾー)」が生粋のフランス人(パリッ子)ではなく、カラカスの修道院育ち(聞き間違えかなあ)というのがミソだね。彼女は「三角関係」をどう生きるかが、身についていない。「ふたり」をうまく生きられない。
これを「逆」に読むと。
ベラ・クルーゾーは、あくまで「単独行動」。他人に利用されるふりをしながら、他人を振り切っているとも言える。ラストシーンで、子どもがパチンコ(遊具)を、死んだはずのベラ・クルーゾーからもらったという。それが「ほんとう」なら、彼女こそが「大芝居」を打って、シモーヌ・シニョレとポール・ムーリスの「ふたり」を出し抜いたことになる。こういうことは、常に「ふたり(共感)」を基本にして動くフランス人(パリッ子)にはできない。「私立探偵」は、いわば雇った第三者。「ふたり」の関係は、ベラ・クルーゾーにとってはいつでも「雇い主-雇われ人」という「契約関係」で「共感/共有」とは別なものだということ。
映画なんだから、ストーリーなんてどうとでも「説明」できるから、結論だとか、謎解きだとか、そういうことはどうでもいい。やっぱり、そのストーリーを突き破って動く役者の「顔」(肉体)を楽しむことだなあ。
シモーヌ・シニョレの、一種「冷たい」目の力はすごいなあ。「アンダー・ハー・マウス」のエリカ・リンダーの比ではない。この目で誘われたら、男も女も、みんな操られてしまうなあと感じてしまう。ベラ・クルーゾーよりも、私はシモーニュ・シニョレが好き。だから、最後は「うーん、残念」という気持ちになる。
これもまあ「共感」の一種ということになるのかなあ。
(午前十時の映画祭、中洲大洋スクリーン3、2017年11月22日)