池井昌樹『理科系の路地まで』(20)(思潮社、1977年10月14日発行)
「紙の空の音」は「運動会」が舞台だろうか。
秋の運動場には
空が写っているにちがいない
と、始まる。運動場は掃き清められている。水面のように空を映している。これは、とても美しい。
途中にこんな行がある。
走っていると
内側のどこかは 知らぬ間に
突然 すうっ! とおちこむのだ
二本の脚は 依然として
そらごなあげて ふるえている
黄いろいほこりは幻燈器だ
ここに書かれていることは「こわい」ことなのに、こわくない。それは「幻燈」ということばが、「事実」を「幻」に変換してしまうからだろう。
あるいは、
きらら きらら
しらぬまに
僕らのからだは透きとおり
そうめんの血管に糖蜜はのぼり
僕らのこめかみの信号機に
どろっぷしぐなるの青がとぼる
「僕らのからだは透きとおり」美しい。「どろっぷしぐなるの青がとぼる」には郷愁を覚える。しかし「そうめんの血管に糖蜜はのぼり」は気持ち悪い。「糖蜜」は、池井の肉体には快感かもしれないが、甘いものが苦手が私には、苦痛だ。そして、これらのことばの混在には、(混在の仕方には)、私とぞっとしてしまう。
思うに。
池井のことばは、ゆがめられていないのだ。だから、修正された「学校文法」のことばになれている私には、池井のことばは特異に見え、気持ち悪くも感じられるのだ。ぶよぶよの、不定形の肉体のなかを、ときどき硬質なものが横切っていく印象がある。
これは、逆に考えることができる。もちろん、中学生、高校生のときは、こういうことは考えられなかったから、これから書くことは、当時の印象とは違う。
たぶん、池井自身も中学生、高校生のときはそんなことを感じなかっただろうけれど、池井のことばは、それをゆがめ、修正しようとする力と闘い、その闘いの瞬間に、池井の肉体のさらに奥にある「事実」を知らないままに発見している。詩人と呼ばれるひとはみな、詩人のことばを修正する力と闘いながら、ことばを動かしている。しかし、池井は、そうすることが「真実」の発見に至るという可能性を認識しないまま詩を書いているのではないか。だから、修正する力と闘い、それに負けるふりをしながら修正する力を破壊するという仕事をしていない。
ゆがめられないことによって、ゆがんだまま、そこに存在する。しかし、それは修正する力(学校文法)を破壊するという仕事にはならない。池井には、修正する力と闘っているという自覚がない。だから秋亜綺羅は、「池井の詩は現代詩ではない」と批判する。
同時代を生きている秋亜綺羅には、自覚が感じられる。谷川俊太郎も、そういう過程を経てきていると感じる。
どちらがいい、というのではない。そういう違いを、私は、ただ感じる。