池井昌樹『理科系の路地まで』(18) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『理科系の路地まで』(18)(思潮社、1977年10月14日発行)

 「窓の外は冷えた海面」。

海がどこかにあるような
つめたいコオロギの腹色の
山やら 甍やら 木々やらが
ひん! としていて
ぼくらのものを
いまにもガジガジ噛みつぶしてしまいそうな
ベーリング色の 空のうおのめのようだ

 なんのことかよくわからない。「うおのめ」は最後の連にも出てくる。

ああ
つかめそうなうおのめやまの
まがった背中に 氷が点いた
空の針穴に むこうがわがともった!

 大学受験の帰りに、坂出の池井の家に立ち寄った。試験は散々で、私はこれから就職先を見つけなければならない、池井(のような詩人)には、会うことはないだろう、と思い、「ちょっと立ち寄りたい」と言って、押しかけたのだった。
 で、いっしょに街を歩いていたら夕暮れになって、山の稜線に赤い明かりが一列についた。「あれが、詩に書いたやつだ」と池井が言った。
 へええ、池井はいつも現実を書いていたのか、と私はあらためて感心した。
 池井は「幻想」ということばをかなりの頻度でつかっているが、あれは「幻想」ではない。「事実」と「幻想」の対立というものはないのである。
 あるいは、こう言いなおそうか。
 「事実」の反対の概念は「虚偽」かもしれないが、池井は「虚偽」を書かない。書けない。私から見れば「虚偽/虚構」に見えるものは、池井には「幻想」なのである。私は「幻想」というものを信じないから、それを「虚構/嘘」と呼ぶのだが、池井はそういうものを書かない。「虚構/嘘」というものは「頭」の操作だが、池井は「頭」で世界を動かしたりはしないということになるだろう。「肉体」のなかで何かが動き、ことばになって出て行く。それは「学校文法」の枠ではとらえきれない。そうしたものを、池井は「幻想」と呼んでいるのだと思う。これは、私たち読者への「親切(方便)」であって、池井にとっては「事実」しかない。