ベロニカ・フランツ、セベリン・フィアラ監督「デビルズ・バス」(★★) | 詩はどこにあるか

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ベロニカ・フランツ、セベリン・フィアラ監督「デビルズ・バス」(★★)(KBCシネマ、スクリーン1、2025年05月25日)

監督 ベロニカ・フランツ、セベリン・フィアラ 出演 アーニャ・プラシュグ、ダービド・シャイド、音楽(音)

 予告編の映像があまりにも美しく、音楽(と音)が不気味だったので、好奇心をそそられた。
 映像は予想を裏切らない美しさ。18世紀半ばのオーストリア北部が舞台だが、映像(風景、その色、湿度)と音(あるいは、それと拮抗する沈黙)が、まさに18世紀半ば(といっても、私は18世紀半ばのオーストリアの風景も、そのときの沈黙も知らないのだが、現代の日本とは明らかに違う。その、いま、ここにない世界に引き込まれる。湿気を帯びた森の色(イギリスの緑に似ている。雲海もとても美しい)と沈黙(騒音がない、ノイズがない)と、沈黙に余分な音を吸い取られたような尖った音に、うなってしまう。この音を、しかし、私は聞いた記憶がある。こどものときに。私が育ったのは北陸(能登半島)の山の中で、そこには騒音がなかった。車の音もテレビの音も。小学校の教室の窓から小さな滝が見えたが、その滝のそばへ行くと、ただ水が落ちる音がするだけである。「水源まで行くことができるか」と友人とその滝をさかのぼったことがあるが、そのとき見た山の緑と、水の音にそっくりである。半世紀以上前、私のふるさとはまだ18世紀だったということだろう。
 という個人的な記憶と感受性は別にして。
 映画を見ながら、あ、私はキリスト教徒ではないからな、と思うしかなかった。私は仏教徒でもない。私は「無神論者」である。そういう私が、この映画で展開される「事実」について語ることは、結局見当違いになるだろうなあ、と思う。思うけれど、書いておく。
 この映画の重要なテーマは「告解」である。「告解」すればキリスト教徒は「天国」に行ける。しかし、「告解」できなければ「天国」には行けない。自殺者の場合は、もちろん「告解」はしないが、彼らは埋葬もしてもらえない。そこで、もしこの世界に失望し、死にたくなったら、どうするか。なんと、ひとを殺すのである。ひとを殺すと死刑になる。しかし、死刑になる前に「告解」が許される。「告解」し、天国に行くのである。この映画では、では殺されたひとは、では、どうなるのかは描かれていない。殺されたひとにはもちろん「告解」する時間はない。このことを18世紀のキリスト教徒は、あるいは神父(牧師?)はどう考えていたのか。それが、私にはわからない。だから、この映画の「テーマ(?)」が投げかける問題は、私にはさっぱりわからない。
 だからこそ、映像の美しさ、音(自然の音のほかに、バックグラウンドミュージックもある)が印象に残る。
 そして、死にたくなったアーニャ・プラシュグの、絶望も、ひどく胸に突き刺さる。演技がうまいということだろうなあ。彼女は、「資本家(池と土地を持っている)」の男と結婚するのだが、この男が、いわゆるマザコン。さらに男色らしい。結婚式、パーティーが終わって、初夜。女は下着を脱いで男を誘うが、男は女の性器を見たくない。触りたくない。後ろを向け、と言う。で、うしろから性交するのかと思えばそうではなく、女の尻に向かって自慰で射精する。振り向こうとする女を手で制止しながら、自慰をつづける。女はこどもがほしいのだが、これではこどもは生まれない。
 さらに男は母と別居するために家を買ったのだが、その家には母がやってきて、女の料理の仕方や、鍋の置き方にまで注文をつける。つまり、義理の母が女をコントロールする。仕事の仕方、魚取りの労働者への報酬(パン?)の配り方にも、注文をつける。女は、ようするに「労働者」として、男の「家」に組み込まれたのである。現代なら離婚して問題が解決するのかもしれないが、18世紀半ばのオーストリアでは、それもできない。
 これは、まあ、ほんとうに見ていてうんざりする暗い映画である。オーストリアのひと(キリスト教徒)にとっては「歴史」であり、重要な問題なのかもしれないが、私には、ついていけない。私の列の端っこに座っていた男は、途中、いびきをかいていた。彼は、前にKBCで映画を見たときも、同じ列の右端に座っていて、いびきをかいていた。同じいびきの音だった。まあ、眠っただけ、暗い気持ちにならずにすんだかもしれない。
 しかし、この映画の映像の美しさは音のすばらしさ(いびきに邪魔されたけれど)は、とてもすばらしい。死体(そして、その死体を切断する、あるいは家畜を屠殺するシーン)シーンさえも、とても美しい。見とれてしまう。そこには「残酷」が明確に把握されている。「残酷」には、何か「倫理」や「論理」、「理性」を越える美しさがある。自殺は許されないけれど、殺人は「告解」すれば許されて天国へ行けるというのも、何か、そういう「矛盾の美」を内包しているのかもしれない。