谷川俊太郎『別れの詩集』(10)(「谷川俊太郎 お別れの会」事務局、2025年05月12日発行)
「夜の場所」。
私はいまだに無知でそれを偽ったことはない
皮膚の皺とたるみが年月の地図を描いているが
それに頼って行く着く目的地はただひとつしかなくて
そこを私はひそかにほんとうの夜の場所と呼んでいる
難解な詩である。難解である理由は、「それ」が何を示しているかわからないからである。何かわからない「それ」が二回繰りかえされた後、「目的地」ということばがあらわれ、「そこ」と言いなおされている。「そこ」は場所であり、「そこ」へ行くには「それ」が必要である。そういう果関係だけが明示されている。
「それ」は何なのか。
それを知る手がかりは、たぶん「いまだに」ということばだろう。「いまだ」が含んでいるものは何か。時間だが、その時間は「未来」か「過去」か。「いまだ」事態は「未だ」だから「未来」だろうけれど、「未だに」というとき「未来」というよりも「過去」に力点がおかれていると私は感じる。「いま」を基準にして、「いままでに」という気持ちがあって「未だに」とことばが動く。だからこそ「偽った」と「過去形」があらわれる。「偽ったことがない」だから正確には「現在形」なのだろうが、そこに「過去」が含まれる。
この詩は、しかし、「それ」を置き去りにして「そこ」に重心を映していく。
そこははじめ冷たくてだんだん暖まってくる蒲団の中ではなく
人っ子ひとりいない河沿いの石畳の上でもなく
いつまでも花火みたいに弾けている深夜番組の表面でもなく
すべてが疑問形で終わる私の心の芯でもない
「だんだん暖まってくる蒲団の中ではなく」からは「肉体」と関係がある場所だと想定することができる。蒲団の温かさを感じるのは「肉体」である。「私の心の芯でもない」からは「心」とも関係があることがわかる。関係がなければ、わざわざ「心」ということばをつかわないだろう。だいたい「心の芯」というのは、客観的な「場」ではないから「そこ」と言われても、ほんとうに「そこ」なのかどうかわからないが、「心の芯」ではないことだけはたしかである。
「肉体」と「心」が出てくれば、そしてこの詩集が『別れの詩集』と名づけられていること、初出が『詩と死をむすぶもの』であることを考えると、それは、死と関係するのだろう。
そこで終わるものは何ひとつないが
もう名前は忘れてしまってもいいだろう
という暗示的な行も後半に出てくる。「そこ」が「死」と関係しているのだとしたら、「そこで終わるものは何ひとつない」というのは、どういう「意味」になるだろうか。「死」は終わりであるから、それからもういちど「終わる」ということはできないということだろうか。「名前は忘れてしまってもいい」のは、区別がなくなるからだろうか。ただ「そこ」と意識できればいいだけだ。だから具体的な「名前」はいらない。意識が動いていることを明示する「そこ」だけでいい、ということか。
こういうことは、「答え」を出さなくてもいい、と私は思う。
しかし、「考える」ことは必要だと思う。
で、考えるのだが。少し戻って考えるのだが。
二連目に「心」ということばが出てきたついでに考えるのだが、「心」と、書き出しの「偽る」となにかしら関係があるかもしれない。「偽る」ということばを書いたとき、谷川はすでに「心」のことを考えていたのかもしれない。
そして、「偽る」ということについてなら、私は、谷川が書いていることとは逆のことを考えてしまう。
私は嘘つきだから、何度も「偽った」ことがある。母親の財布から金をくすねて、嘘をついたことがある。しかし、これなんかは「偽り(嘘)」と言えるかどうか、あやしい。私が嘘をついていることくらい母はわかっていただろう。
私はむしろ嘘をついても(嘘がばれても)、最終的に、母は私を許してくれるはずだと、私の「こころ」に言い聞かせていなかったか。そして、安心していなかったか。家族の中で金を盗んでも、それは犯罪にならないというような民法の解釈を読んで、私は私がしたことを友人に語ったことはなかったか。笑い話にしたことはなかったか。「良心」に対して嘘をつくこと、偽ることはとても簡単だ。
いちばんだましやすい(偽りやすい/嘘をつきやすい)相手は、他人ではなく、自分なのである。
「この文章を書いたら、本を読もう」と私は私に言い聞かせる。しかし、「本はあした読めばいいさ」とすぐに自分を納得させることができる。あしたの方が、時間がたっぷりある。本は急いで読むものではない、ゆっくり考えることこそ大切なのだ、ともっともらしく理由づけることもできる。いつでも「偽る」ことができる。自分に対して嘘をつくためにことばはある、とさえ言うことができる。
こういうことは、谷川の詩とは関係ないかもしれない。
でも、私は、関係ないと思われることも書いておきたい。「偽り」(あるいは「偽る」という動詞)について、谷川はどんなふうに考えて一行目を書いたのか。
このことをもう一度考えることが、この詩集におさめられている詩、これから読む詩のなかで起きるだろうか。