谷川俊太郎『別れの詩集』(9) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『別れの詩集』(9)(「谷川俊太郎 お別れの会」事務局、2025年05月12日発行)

 「散歩」は五七調で書かれている。

さて行くか 行く手定めず
水虫の 足踏みしめて

 初出は「短歌時代」。だから五七調で書かれたのか。サービス精神あふれる谷川らしい。しかし、この五七調は、音は五七調だが、音楽的とは言えない。和歌(短歌)がもっている音のうねりのようなものがない。特に書き出しは。

左能には 消しゴムの滓
右能には オペラのかけら
薄れ行く 理性惜しまず

 この部分は好きだなあ。「左能」「右能」という対句構えがすっきりしているし、「消しゴムの滓」のなかで動く「か行」、「オペラのかけら」の「脚韻」ふうな構え。そのあと「能」を受けて「理性」が登場するのも、自然でいいなあ。
 「作為」はあるのだけれど、(谷川の詩には多くの作為が存在すると思うけれど)、その作為が自律して動いている感じが、「リズム」をつくっている。
 この五七調は「長歌」か。最後に「反歌」がついている。

行き暮れてひと懐かしい町はずれ
誘うな俺を五七の魔物

 うーん、「魔物」という感じは、私は受けなかった。「町はずれ」「魔物」という二回の体言止めが、作品を「小さく」させてしまっている。

 「今ここ」には、「魔物」ではなく「化け物」ということばが登場する。

化け物が棲む物語の森で迷子になって
ココロはいまだにさまよっている

 先日見た「タマシイ」のかわりに「ココロ」。最終連には「カラダ」も登場するから、この「ココロ」は「タマシイ」と似ているかもしれない。

昨日でも明日でもない
今ここに生きる若いいのち老いたいのち
カラダはカラダとともに生きる
のんびりココロとたわむれながら
いつまでも古びない驚きとともに

 「古びない驚き」はカラダにとっての驚きか、ココロにとっての驚きか。単純に「いのち」にとっての驚きと考えてみたい。
 「いのち」はいつも驚いている。谷川の「いのち」はいつも驚いていたと思う。だから詩を書いてしまう。
 「驚き」は「わくわく」と対になっているかもしれない。

 次は「わくわく」という。「わたしはしぬのがたのしみ」という一行ではじまる。

しんだらじぶんはどうなるのか
いなくなってしまうのか
それともからだがなくなっても
かんじたりかんがえたりできるのか
いきているうちはそうぞうもできないどこかへ
いくのだろうか わくわく

 たどりついたら、きっと「驚く」と思う。だからよけいに「わくわく」する。「わくわく」はもっと驚きたいという欲望だろう。

じぶんがしぬのはたのしみでも
だれかがしぬのはかなしいしつまんない
たびにでるひとをみおくるのににてる
でもわたしはさよならはいわない
わかれるときはいってらっしゃいといおう

 それがいいと思う。私は谷川と別れたのかどうかわからないが、お別れ会では、やっぱり「いってらっしゃい」がいい挨拶だったかなあと、この詩を読んで思う。もし谷川に出会うとしたら、いつ、どこでだろうか。「わくわく」する。