マグヌス・フォン・ホーン監督「ガール・ウィズ・ニードル」(★★★)(KBCシネマ、スクリーン2、2025年05月22日)
監督 マグヌス・フォン・ホーン 出演 ビク・カルメン・ソンネ、トリーヌ・ディルホム
主人公はだれなのか。一見、ビク・カルメン・ソンネに見える。出征した夫の行方がわからない。貧困に耐えられず、工場主に身を任せる。妊娠する。しかし結婚してもらえずに、堕胎を試みるが失敗する。そのとき、トリーヌ・ディルホムに「養子斡旋」を持ちかけられる。そこへ、顔にけがをした夫が、仮面で傷を隠して、帰ってくる。(「他人の顔」のようだ。)夫は生まれたこどもを二人のこどもとして育てようという。女は、養子に出して身軽に生きようとする。男とも別れる。いろいろあって、ビク・カルメン・ソンネはトリーヌ・ディルホムが養子斡旋をしているのではなく、話をもちかけて預かったこどもを殺していることを知る。何人も何人も殺しているのだ。そして、……というのがストーリーなのだが、主人公はビク・カルメン・ソンネではなく、トリーヌ・ディルホムなのではないか、という気がしてくる。
トリーヌ・ディルホムは、なぜ養子斡旋をするふりをして、預かったこどもを殺すのか。実は、彼女には娘がいる。ずいぶん年が離れているので、母と娘には見えないが(裁判で、そのことが問われたりするが)、親子である。たぶん、トリーヌ・ディルホムの娘は、ビク・カルメン・ソンネの娘のように、「望まれて生まれたこども」ではなく、「望まれないまま生まれたこども」なのだろう。トリーヌ・ディルホムには娘が邪魔だった。できれば養子に出したかった。しかし、それができない。さらには、できることなら殺してしまいたかった。しかし、できない。その屈折した気持ちが、他人が生んだ「望まれないこども」を殺すという形となって噴出してくるのである。
この映画のなかには、なにか「不思議なものを見ている目」がある。それは、最初の方にあらわれるビク・カルメン・ソンネの目のアップによって象徴されている。彼女はバスに乗っている。寒い季節。ガラスが曇る。そこにふたつの丸を指で描く。目である。その目をとおして、外の風景を見る。それを、カメラはガラスの反対側、つまり窓のそこからビク・カルメン・ソンネの目を映し出すことで、彼女が見ているものを映し出す。それは「暗示」のように、はっきりとは見えない。見えるのは、彼女が見ているバスの外(街の風景)ではなく、彼女自身の内面のように感じられる。
すべてが、たぶん、そうなのである。ひとは、「社会」を見る。「他人」を見る。しかし、それは「自分」なのである。「社会(他人)」と切り離して、自分の行動があるわけではない。何かが連続し、反映し合っている。自分ではできないことを、他人に対してはできる。他人にはできないことが、自分にはできる。ビク・カルメン・ソンネとトリーヌ・ディルホムは、その関係にある。そしてそのとき主導権を握っているのは(主役は)、トリーヌ・ディルホムである。
ある人間が別の人間と重なり合い、どちらが主役かわからなくなるというのは、もうひとつの「象徴」的事件をとおしても描かれる。ビク・カルメン・ソンネが、顔の傷をサーカスで見せている夫との再会のとき表現されている。男の傷に手を触れることができるか。傷だらけの男とキスができるか。ふつうの観客は、できない。しかし、ビク・カルメン・ソンネには、それができる。傷だらけの肉体になっているのは、夫ではなくビク・カルメン・ソンネである。だれでも自分の傷には触れることができる。癒えていない傷は痛い。しかし、痛いと感じながらも人は自分の傷口に触れる。それがどんなものであるかを確かめずにはいられない。あのときビク・カルメン・ソンネは自分自身に触れている。傷ゆえに、他人から差別される自分の「肉体」に触れている。ビク・カルメン・ソンネは貧しさゆえに差別され、工場主とは結婚できなかった。そして、不幸が加速したのである。
そうした人間関係の複雑で、どうしようもない動きを、トリーヌ・ディルホムは肉体のなかに抱えている。そして苦しんでいる。その苦しみから逃れるために、「他人」に(社会に)復讐する。それが「養子斡旋」ではなく、それを装った嬰児殺しである。「養子斡旋」をもちかけるとき、彼女は「名前をつけるな」という。名前をつけることは、自分とこどもの関係のなかに、切り離せないものが入り込んでくるからである。名前を呼ぶと、「愛情」が動き始めるのである。彼女は自分の娘に名前をつけてしまった。だから、殺せない。そして名前の知らない嬰児なら、殺すことができる。そればかりか、その行為を彼女は「復讐」、あるいは「犯罪」とは呼ばずに、「他人を救済する行為」とさえ言う。ひとはだれでも、自分自身に対して、いちばん嘘をつく。自分の行為を正当化するためなら、何でも言う。そして、その嘘を、納得してしまう。他人に嘘をつきとおすのはむずかしいが、自分に対してなら簡単にできる。
この苦しい映画は、どんなふうにして人間を救済するか。
ビク・カルメン・ソンネは、いまは孤児院にいるトリーヌ・ディルホムの娘を養子として引き取ることにする。娘は、自分の養母がビク・カルメン・ソンネと知って、「にっ」と笑う。とても不気味な笑顔であるが(夫の傷ついた顔よりも、傷がないだけによけいに不気味であるが)、現実(事実)とは、その笑顔が象徴するように不気味である。「完全」に見えるものには、何か、どうしようもない「間違い」が含まれている。ビク・カルメン・ソンネとトリーヌ・ディルホムの娘の「新しい母娘」にどんな間違いがあるか。たぶん、人間には他人を殺してしまいたい衝動があるということを知っているという間違いである。そんなものを知らずに生きていけたらどんなに幸せだろう。しかし、彼女たちは、それを知っている。知っていることを、どう生かすか。それは映画を見たひとりひとりが考えることであって、映画の問題ではない。モノクロ映画だが、それは「色」は見たひとが意識の中でつければいいと観客に任せているからだろう。映画の結末(その解釈)を観客に任せているように。
とても重要な映画である。しかし、あまりにも暗すぎる映画である。