池井昌樹『理科系の路地まで』(13)(思潮社、1977年10月14日発行)
「柳河」の現実のつながりかた(現実があらわれてくるあらわれかた)は、やはり「学校文法」を拒絶している。
黄色やらももいろやらさくらいろやら
とにかくむんむんした絨毯のようなぶ厚い地面が
一枚 遠くまで つづいている
うえ オリエンタルブルー
絨毯の真ん中を 一本の川が流れていて
両側は 畠でもなく 道も無く
したがって 蛙も 家鴨も 鮒も 人も
みな おなじところを歩かねば
ならない
柳河(柳川)で「川下り(水路巡り)」をしたときのことを書いている。春、花が咲きほこり、その花々が絨毯のようになっているところを川(水路)が流れ、そこを舟に乗って進む。舟の上からは、さっき見てきた「ぶ厚い地面」は見えない。池井は、蛙、家鴨、鮒といっしょに「おなじところ」を歩いている。(進んでいる。) そういう「状況」だとわかるが、
うえ オリエンタルブルー
この「うえ」は何? わからないけれど、私は気にしない。水郷・柳川の水路の色をことばにするとき、いっしょに出てきたことばなのだろう。それが何を指していてもかまわない。ことばと対象の関係、ことばと対象(存在)を厳密に結びつけることでは説明できないことがある。「学校文法」にしたがって形式を整える(「ことば=対象」に限定する)と、そのとき「感じてた現実(事実/真実)」からはなれて、ことばが空転する。あるいは、「現実」そのものが空転する。それではおもしろくない。
ことばが、そこにない「事実/現実」をひっぱりだしてもかまわない。「うえ」は、そういう、腹の底からもれた「息」かもしれない。
この瞬間、池井は「人」ではなくなる。蛙、家鴨、鮒。なんにでもなってしまう。もしかすると、水になっているかもしれない。
うえ オリエンタルブルー
一本の川のおもてには やさしい陽光
ゆらゆらゆらゆら ゆらあぶら流し
ゆらあぶら透かした川のそこには
あたたまった 茶碗の缺けたのやら 真菰の根っこやら
透き通る 鮒 沢蟹 蜻蛉の子の Mirror house
「ゆらゆらあぶら流し」というのは、川面に油膜が浮いている状態かもしれない。そうではなく、春の光がねばるようにゆれながら反射しているのを「あぶら流し」と呼んでいるのだが、「あぶら流し」ということばが「美しい」かどうか。川底の「茶碗の缺けた」ものが「美しい」か、どうか。たぶん、「汚い」ものの部類かもしれない。しかし、それが春の光にあたためられ「ゆらゆらゆらゆら」している。そのときの「ゆらゆらゆらゆら」は「気持ちがいい」に違いない。
池井は「美しい」よりも「気持ちがいい」を選ぶ。「気持ちがいい」を池井は書き記すのである。記述するのである。このときの、書く行為そのものが、書き終わったあとの作品よりも「詩」なのである。書かれてしまったもの(完成したもの)は、書いているときの「気持ちよさ」には、どうしても劣ってしまう。たぶん、池井は、そう感じている。書くことのなかに「快感」があるから、それにどっぷりと浸るようにして、ただ書くのである。
川の底より 見上げると
幾筋も 幾筋も 陽光油が
電気飴のように ぬるぬる 割り込み
無限さの 底より 見上げると
ああ ほんとに 破れて足でも出て来そうなお天気
遠くで きらきらしばたたいている
水路巡りをしているのに、池井はいつのまにか川の底でいろいろなものといっしょに生きている。途中に出てくる「ぬるぬる」もふつうは汚いものに対してつかわれることがおおいが、「泥遊び」の「ぬるぬる」の「快感」は、やはり「快感」としか呼べないものである。
どこにでも「快感」はある。
詩は、まだまだつづく。
鯉幟竿の風車
僕や 蛙や 鮒や 蜻蛉や
うえ オリエンタルブルー
絨毯の真ん中を 一本の川が流れていて
両側は 畠でもなく 道も無く
僕や 蛙や 鮒や 蜻蛉や
したがって
みんな おなじ
茂りの底で
生ま息ついたり
ねむったり
目を合わせたり
わらったり……
きら きら きら きら
陽光の 下の 居眠り
みんな いっしょに まいもどり
これは、ほんとうにいい詩だ。池井の代表作のひとつに数えたい。