谷川俊太郎『別れの詩集』(5)(「谷川俊太郎 お別れの会」事務局、2025年05月12日発行)
「夏が来た」の二連目。
夏はほんとうは生涯にただ一度だけなのではないか
夏がめぐって来るたびに今度こそはと夢見るが
終わってみるとどの夏も生涯に一度の夏ではなかったと思う
駅に止まってもそこが下りる駅ではないみたいだ
「生涯に一度」と言えば、「生まれる」と「死ぬ」である。この詩には「死ぬ」は出てこないが、「生涯に一度」が「生まれる」「死ぬ」を連想させる。それは、だれも一度しか経験ができない。そして、その「経験」は、だれにも語ることができない。なかには「生まれたときのことを覚えている」というひともいるけれど、私は、信じない。あとから考えたことだと思う。人間は、何といっても自分に嘘をつく。そして、その嘘を信じてしまうものである。
この詩では、何といっても「駅に止まってもそこが下りる駅ではないみたいだ」が印象に残る。死んだとき「死んでしまっても、死んだとは思えないみたいだ」とひとは考えるだろうか。谷川は、どう考えただろうか。聞いてみたいが、聞く方法がない。
とは、思わない。
私は、この一行を読んだとき、「かなしみ」を思い出した。
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった
谷川は、そう思ったのではないか。「何かとんでもないおとし物」とは、詩のことである。谷川は、それを持っていくことはできなかった。「おとし物」として、日本語のなかに、残してしまった。それを谷川は絶対に取りに戻ることはできない。
こんなことを死んだ人に向かって言うのは変なことかもしれないが、どうしていいかわからずに「かなしみ」を抱いている谷川。そういう谷川を、私は、好きだ。その姿を思うと、「かなしみ」のなかに、私が溶け込んでしまいそうだ。そんなふうに、私は、谷川の「かなしみ」という詩が好きだ。谷川が好きだ。