池井昌樹『理科系の路地まで』(12) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『理科系の路地まで』(12)(思潮社、1977年10月14日発行)

 「泳ぐひと」。ひらがなだけで、詩がはじまる。

みずみずしい ぷりんのような ゆふべのそら
みずいろの ふらんのような ゆふべのそら
ああ ぼくはいま ぶれすとしてる
くろおるをしている

 「ぶれすと」「くろおる」には傍点が打ってある。カタカナで書くのがふつうだが、あえてひらがなにしている。その「工夫」をつたえるための傍点だと思うが。でも、「ぷりん」「ふらん」には傍点がない。どうつかいわけているのか。「ぷりん」「ふらん」は食べられる、からかもしれない。
 それ以外にも、池井は、奇妙な書き方をしている。「ゆふべ」。旧かなづかい。しかし、旧かなで書くなら、その直前の「ような」は「やうな」だろう。ただ「ゆふべ」と書いてみたかったのだろう。「ゆうべ」よりも「ゆふべ」の方が池井の感覚(肉体)に合っていると感じたのだろう。
 この詩には、

電球のたまはちょうちんにならない
                            (「ちょうちん」に傍点)
りんかくだけのぷれぱらあとだ
                          (「ぷれぱらあと」に傍点)

 という行がある。何に傍点をうつか、その「規則」はみつけにくい。「りんかく」というひらがな表記も、その理由はわからない。ただ、ひらがなで書きたいものはひらがなで書く、という「わがまま」が詩のなかを動いている。
 こうした「わがまま」は大切だと思う。ことばにこだわるのが詩だからである。そして、それは「意味」ではない。
 最後の一行にも、傍点がある。

すきとおった電球のたまは
内側で 燃え上がっている
見えない飛行機のぱくおんが寝ている……

 「ばくおん」に傍点。
 私は、ここで、ちょっと考えた。
 最終行の「見えない」はどのことばにかかっているのか。単純に読むと「見えない飛行機」になる。飛行機は「見えない」けれど、「ばくおん」が聞こえる。だから、それを「飛行機」の音と想像している。こう考えると「論理的」だが。
 私は、ふと「飛行機の見えないばくおん」かもしれないと考えたのだ。もちろん「ばくおん」は聞くのであって「見る」ものではないから「見えないばくおん」では学校文法を踏み外してしまう。しかし、詩は、学校文法どおりに書く必要はない。読む必要はない。文法では説明できないものがあって、それを書きたいからこそ詩を書くのではないだろうか。(詩だけではなく、あらゆる言語活動は、学校文法の「修正」を拒否したところからはじまる、と私は感じている。)
 「ゆふべ」のなかの逸脱。「ぶれすと」「ぷれぱらあと」の逸脱。「ちょうちん」「ばくおん」の逸脱。それは表記だけだが、「見えないばくおん」になると、表記の問題ではなくなる。もっと違う種類の逸脱である。
 この逸脱が「ばくおんが寝ている」という「日常的な描写」を超えたことばの運動につながっている。
 そして、この「寝ている」という動詞に出会った瞬間、私は「あっ」と声を漏らす。この詩は、これまで読んできた「春埃幻想」とつながっているのではないか。(詩集の末尾に書かれている詩作の日付を参照すると、つながっていないのだが……。)池井は「病気」で寝ている。蒲団のなかで「泳ぐひと」になっている。また「見えない飛行機」になって、「見えないばくおん」を響かせている。同じように、他人からはそうは見えないが、一連目では、池井は蒲団のなかで「泳ぐひと」になっていたのだろう。風邪をひいて寝ているが、それは「見かけ」。池井の意識(肉体)は「泳ぐひと」になっている。
 ここには奇妙な「越境」がある。学校文法がつくる「道」を踏み外して、池井が独自に歩く「方法」がある。この「独自性」の説明をしないで、池井はまっしぐらに「独自性」をつらぬく。「詩人」になる。
 こういうことは、あまり厳密には考えないで、ただ、そう感じた、とだけ書いておく。