杉惠美子「おしまい の あと」ほか | 詩はどこにあるか

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杉惠美子「おしまい の あと」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年04月21日)

 受講生の作品。

おしまい の あと  杉惠美子

夕暮れ
葉桜になった枝々が 揺れはじめた

午後五時
つぎつぎと 壁からはずされていく

筆跡を追う空気感と
視線を包む空気感と
視線の先にある
ことばも消えていく
歩いているような
走っているような
墨のいろも消えていく

何かが うごいた

自分にできることをした

 書道展を開いたあとの「あとかたづけ」。三連目は、しかし、書くという行為が含まれている。書くところから、詩を書いているように感じられる。作品が完成したあとも、実は作品は生きていて、杉を誘っているということだろう。こう書いてほしかった、こう書けばよかったという対話が展覧会の間中つづいていたのではないか。そういうことを感じさせる。
 そうしたことを含めての「ある」が「ない」になる。「消えていく」と杉は書いているが、しかし、それは「消えない」。何かが残る。その「残ったもの」は「動いた」という印象である。それが「自分にできることをした」という思いにつながる。それはけっして「消えない」。いつまでも「ある」。
 静かに書き始めて、しっかりと終わる。ことばに自然なリズムがある。作為がないところが「楷書」のようである。



梅の花  青柳俊哉
 
あめのあさ
うめのおさな木咲く
真珠つぶつけて
 
華々しく大輪のつばきちる
そらに照るうみのぴんく
 
地にふれるおれんじのたま微か
八朔のほそいほそい垂れ枝しなる
 
交感する黒土のうみ 
つたいながれるおれんじピンクしんじゅ
交信するはるいろ地中虫
 
ふゆへのこる
南天の、しずけさ

 書き出しの二行がとても印象的である。「音」の交錯、響きあいだけではなく、文字の配列が視覚的にも刺激的で、音の交錯に加担する印象がある。「め」「の」「さ」は左右に並んでいる。この関係で四文字目の「あ」と「お」が、一瞬、同じ文字に見える。この錯乱が、音をいっそう楽しいものにする。
 こうした工夫がもっとあってもよかったかもしれない。
 漢字、ひらがな、カタカナをまじえ、変化を演出しているが、「つたいながれるおれんじピンクしんじゅ」は、カタカナをつかわず「つたいながれるおれんじぴんくしんじゅ」にするとどうなるだろうか。読みにくいかもしれない。しかし、詩は読みにくくてもいいかもしれない。
 つまずくとき、そこに読者が出てくる。言い換えると、読者はつまずいた瞬間、筆者の青柳ではなく、自分自身のなかにある音と文字の関係に向き合うのだが、そのつまずきがあるからこそ新しい青柳の発見(読者にとっての)というものも生まれるかもしれない。
 詩は、筆者と読者が出会ったとき、双方のことばのなかでおきる「化学反応」のようなものだと思う。読者をつまずかせることも、大事な仕事だ。

* 

アロハ記者、百姓、猟師  池田清子

本物は
どんな顔
どんな声
どんなしゃべり方
アロハか
スーツか

アロハだった
カーボーイハットのような帽子
サングラス
辛酸なめ子の絵のまんま
大声だった
立ったままで
じょう舌だった

 情

SNSに情はない という
情報
真実
本当


私に、私の
情はありや

かかりつけ医も
記事を書く人も
みな年若になってしまったのだなあ

 朝日新聞の記者のことを書いたのだという。その説明は説明として。
 私は「じょう舌だった」から、「饒」ではなく「情(じょう)」が生まれ、それが「情報」にかわり、さらに「私に、私の/情はありや」と動いていくところがとてもおもしろかった。「情報」から「情」にもどってくるところが、ちょっと不思議。違うことばへ暴走していかないところ、過剰にならないところが、ある意味で、新しい。
 さらに、「私に、私の」と「私」を繰りかえしているのも効果的だ。
 自分を離れない、見失わないという生き方が、自然な形で動いていると思う。



巡礼の旅  堤隆夫

わたしとあなたの中には
痛む体 痛む心を見ている
もう一人の自分がいる
もう一人の自分とは 宇宙のこと

母の胎内の羊水という宇宙空間から
生まれ出た私たち人間は 
宇宙から生まれ
やがて 静かに宇宙に還っていく
空の宇宙には 何の痛みも悩みも不安もない

苦しむ自分を見ている 
もう一人の自分がいる
もう一人の自分とは 宇宙のこと

広大無辺の宇宙の気を浴びながら
私たちは共に手を携えて
今を生き続けよう
恐れることなど何もない

人生は 巡礼の旅 
人生は いつも工事中

病との闘いに負けることが 生の終わりではない
病との闘いを止めることが 生の終わり
あきらめるとは 諦めることではなく
明らかにすること
あるがままを悟り 受け入れるということ

あきらめるとは 夢と希望をもって 
共に手を携えて 
いのちの感しみの詩を語るということ

 「わたしとあなた」は「闘病しているひとと、看護しているひと」かもしれない。しかし、それは「ひとり」であってもかまわない。「闘病しているひとが、同時に闘病している自分を看護している」。これはまた逆に言えば、「看護しているひと(お見舞いに行ったひと)が、闘病しているひとの苦しみをそのまま自分に引き受けている」ということ、さらに言いなおせば「親身になって、闘病するひとの苦しみに寄り添っている」ということになるかもしれない。これは、区別する必要がないことなのだと思う。ひとはいつでも他人と一体になる。またひとはいつでも自分の中に他人をつくりだし対話する。そうした交流が「宇宙」をつくりだす。自分の外に、自分の内部に。
 四連目の「呼びかけ」は六連目の「受け入れる」ということばを呼び出す。「あるがまま」が「宇宙」であり、「いのち」というものなのだろう。
 最終行の「いのちの感しみ」は「いのちの、かなしみ」と読む。

 

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