谷川俊太郎『わかれの詩集』 | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『わかれの詩集』(「谷川俊太郎 お別れの会」事務局、2025年05月12日発行)



 谷川俊太郎『わかれの詩集』を谷川俊太郎の詩集と呼んでいいのかどうか、わからない。谷川俊太郎が、その詩集に収録した詩を彼自身で選んでいないからだ。谷川は、ほんとうにここにおさめられている詩を読んでほしいと思っているかどうかわからない。
 という書き出しは、少し変かもしれない。しかし、この詩集を開いたとき、私が最初に感じたのは、そういうことだ。この感想が、詩集を読み進んでいくとき、どうかわるのか。私は、私を試してみたい。

そのあと

そのあとがある
大切なひとを失ったあと
もうあとはないと思ったあと
すべて終わったと知ったあとにも
終わらないそのあとがある

そのあとは一筋に
霧の中へと消えている
そのあとは限りなく
青くひろがっている

そのあとがある
世界に そして
ひとりひとりの心に

 「大切なひとを失ったあと」という一行は、「谷川俊太郎を失ったあと」と読み替えるべきなのか。たぶん、「谷川俊太郎 お別れの会」事務局、あるいはこの詩集を編集した刈谷正則は、そう読み替えることを期待して巻頭にこの詩を掲げたのだと思う。
 その「意図」は「頭」では理解できるが、どうも私の「肉体」がついていかない。谷川俊太郎が死んだと知ったとき、そして、いまも「谷川俊太郎を失ったあと」ということばが、とても奇妙に響いてくる。
 何が、奇妙なのか。
 「あと」である。「そのあと」の「あと」。この「あと」というのは「時間」を示している。ある時間のポイントがあり、そのポイントを「経過したあと」、「時間的なあと」を意味するのだが、だれかの「死」を境界線にして「前」「あと」というものがあるのか。そんなふうにして「時間」を「前/後」にわけることができるか。
 私が感じている「奇妙さ」は、それにつきる。
 私は、谷川俊太郎は、私の「こころ」のなかにまだ生きている、と言いたいのではない。それは私がほんとうに感じていることではない。単なる「言語のトリック」としてなら、そういうことはできるが、こういうときに「トリック」をつかってみてもしようがない。「トリック」は、「奇妙」のひとつの別の名前にすぎない。
 たとえばプラトン。「プラトンが死んだあと」とは、私は言わない。あるいは、いま読み返している大岡昇平についても「大岡昇平が死んだあと」とは言わない。同じように「谷川俊太郎が死んだあと」とは、私には言えない。
 いつでも「いま」があるだけである。
 プラトンを読み返すいま、大岡昇平を読み返すいま、谷川俊太郎を読み返すいま。それはプラトンに向き合ういまであり、大岡昇平に向き合ういまであり、谷川俊太郎に向き合ういまである。
 一度として、「そのあと」というような便利な時間の区切りはない。もし、それがあるとしたなら、それは私が「ある時間」を私以外のだれかに説明するための「方便」にすぎない。自分のために「そのあと」ということばがあるのではなく、私とは関係ないだれかに向けて「そのあと」ということばを説明的につかうにすぎない。
 この詩の最後の行は「ひとりひとりの心に」。私は「こころは存在しない」と考えているので、この「心」も「敬遠したい」。つかいたくない。ただ「ひとりひとり」、あるいは「ひとり」ということばだけを引き受けてみたい。
 いま生きている「ひとり」として谷川のことばに向き合う。そのとき、谷川は私とともにここにいる。「いま/ここ」に存在する。それは「青くひろがっている」わけではない。色はない。広さもない。ただ「いま/ここ」というものがある。それはもちろん広げていけば広がるだろうが、逆に凝縮し続けてつかみきれなくなるかもしれない。「いま/ここ」は消えてしまうかもしれない。どちらへ動いていくか、そんなことはわからない。
 わからないことと向き合うために「いま/ここ」があり、その「きっかけ」として、たとえば谷川俊太郎のことばがある。それは、谷川俊太郎が生きていたときも、そして谷川俊太郎が死んだ「そのあと」もかわりようがない。かわりようのないものを「そのあと」と呼ぶ必要はないし、そんなことをしたくはない。
 この詩集を開いて、最初に感じたことは、そういうことだった。




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