池井昌樹『理科系の路地まで』(8) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『理科系の路地まで』(8)(思潮社、1977年10月14日発行)

 「春埃幻想」は「ももいろの昼幻想」「病気の日」「春の汽車」の三篇で構成されている。そして、次の「前書き」のようなものがついている。

二月五日、小生感冒のため登校を控える。ああ、実にはるちかい「おひさん」にふくれてきいろくなっている蒲団の底より--
母の顔も、窓硝子の雲も、ゆうらんとゆらゆるなつかしい綿埃も、すべてがすべてが、うずくまるむかしのようだ。赤ん坊の昼のようだ。冬眠する子熊のように、僕よ、もう一度溺れ込もう。放埒の、放埒の、やるせない白昼睡眠の耳の深みに、うつうつとうごいてくる鉋の声、とんかちの声……

 これはこれで、すでに一篇の詩である。
 「ゆうらんとゆらゆる」が、とても不思議だ。高熱で、目がぼんやりしている感じがする。この「音のゆれ」には中原中也の影響もあるかもしれないが、私は北原白秋のことばの響きも思い起こす。
 それよりも何よりも私が好きなのは、「すべてがすべてが」「放埒の、放埒の」という繰り返しである。散文であるなら(説明であるなら)、こうした繰り返しは言語経済学的に無駄である。しかし、詩は、言語経済学など気にしない。それは「無駄」ではなく、必要な「余剰」である。この「余剰」を利用して、ことばは「すべてがすべてが、うずくまる」「放埒の、放埒の、やるせない白昼睡眠」という別な世界へ入り込む。「余剰」はエネルギー、推進力である。それはさらに「むかし」や「耳の深み」ということばを射抜く。そこまで達してしまう。
 こういうエネルギーは、詩の特権だろうと思う。
 この繰り返しの「音楽」は「うつうつとうごいてくる鉋の声、とんかちの声」にもつながっていく。「うつうつ」は次の「う」の音を誘い出し、「鉋(かんな)」の「ん」は「とんかち」の「ん」と響きあう。「鉋」「金槌」なら「か」の頭韻になるが、それはちょっとつまらない。飛躍がない。「ん」という無音で響きあうからおもしろい。
 池井は「におい」の詩人だが、耳の詩人、音楽の詩人でもある。