「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」の問題点 | 詩はどこにあるか

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詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」を酷評(でもないと思うけれど)したところ、あるひとが、その映画を絶賛するユーチューブのURL(宇多丸というひとが中心になって語っている)を送ってくれた。ぱっと聞き流しただけだが、「ずるい」紹介の仕方であった。
 映画なのに、原作小説と比較しながら、小説には描かれていない部分をていねいに描き、妹が登場するシーンが非常によかったと説明している。たとえば、冒頭の音楽の一部が、彼女が交差点で信号を待っているとき口ずさんでいる、あるいはラストシーンの父との思い出のシーン、などなど。小説に書かれていない部分を、どうやって「肉付け」するか。宇多丸の指摘している、その「いいシーン」はたしかによかった。たしかに映画的だった。
 しかし、この映画の「核心」ともいうべき妹の「告白」のシーンについては、カメラワークと長ぜりふを迫真の演技でやっている点については触れているが、問題点を隠したままである。そして、その宇多丸の「隠している点」(というよりも、気づいていない点)こそが大きな欠点なのである。私が、いまの若者は「ことばを持たない(ことばを知らない)」と批判し、これは映画ではないと指摘している点なのである。
 この妹は、銭湯で掃除のアルバイトでいっしょになった男が好きである。しかし、男は気づいていない。そればかりか、男は(あとでわかることだが)、彼女の姉に恋している。(妹は、男の相手が姉とは知らない。)そのことを知って、「身を引く」。「告白」しながら身を引く。その「告白」がともかく長い。全部、ことばにする。これが見ていて非常に退屈。こんなことしか言えないのか、と私は思ってしまう。カメラがいくら途中で少し近づいて(つまりカメラが演技して)、妹の心情に迫るといったって、あまりにもばかばかしい。
 このときつかわれる「好き」ということば。これを彼女は「好(この)き」と言いなおす。それは姉が「幸せ」を「幸(さち)せ」というのに呼応している。この独特のことばづかいによって、私はふたりの女が親密な関係(いっしょに生活している)ことを知るのだが、映画であるなら、妹のせりふは、「もう、私、〇〇くんのこと(名前を忘れた)、このきないから」だけで十分なのである。あとは「ことば」ではなく「肉体」で表現しないといけない。長々とした「説明」はいらない。こんな長々とした説明を「ことば」で語るからこそ、私は、いまの若者はことばを知らない(ことばを持たない)というのである。ことばを持たないというのは「表現できない」というだけではなく、ことばにできないものをことばとして聞き取る力、ことばにしなかったものを聞き取り理解する力をも指している。そういう力が欠如しているからこそ、なんでもかんでも「説明」するのだろう。それは、「説明」がインターネットで人気をよんでいる理由でもあるだろう。現代の若者は「説明」してもらわないと、何も理解できないのだろう。自分で考えることができないのだろう。考えるとは「ことばにする」ということである。
 私はふと思い出したのだが、キャサリン・ロスがほんの一分も登場しないシーンだけで、何かの助演女優賞をとった「さくすらいの航海(だったと思う)」という映画を思い出した。両親は(つまりキャサリン・ロスも)ユダヤ人である。両親はナチスの迫害をのがれてたしか南米へ逃れる。しかし、両親には金がない。その両親の元にキャサリン・ロスが派手な格好であらわれる。金を渡す。父だか母だかが、思わず「おまえ、この金はどうしたんだ」と問い詰めようとする。すると父だか母だかが「そんなことは聞くな」という具合に口を封じる。キャサリン・ロスが売春をやって金を稼いで、その金で両親を助けようとしている、そのことがわかるからである。それを悲しみをこらえて受け取るのである。このときのキャサリン・ロスは、ことばではなにも説明しない。父か母も「売春」ということばはつかわない。しかし、その声、三人の声にしなかったことば、その胸に響いている苦しい音が映像をとおして聞こえる。こういうシーンを、私は映画的と呼ぶ。
 さらに、きのう見た「クィア」。ダニエル・クレイブが男とセックスをする。男が射精したあと、男はダニエル・クレイブを手で射精させるのだが、そのあと男はダニエル・クレイブが着ているシャツで手をぬぐう。手が精液で汚れたのを、シャツできれいにする。それは指のほんの一部の動き(手全体が映るわけではない)で表現している。とても短いシーンなので、その指の動きを見逃すひともいるかもしれない。しかし、これはとても重要なシーンである。男はダニエル・クレイブを心底愛しているわけでもなんでもない。だから他人のシャツで手を拭く。これはダニエル・クレイブが男を口で射精させ、その精液を飲んでしまう(たぶん)のと対比して描かれる。愛の強弱(?)が、きちんと映像として描かれ、そこには「ことば」は介入しない。これが映画である。
 「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」には、たしかに「いいシーン」もある。しかし、クライマックスが長い長いせりふで、しかもそれが全部「説明」であることによって、映画を壊してしまっている。映画ではなくしてしまっている。小説や芝居なら、まだいい。それは「ことば」を読ませる(聞かせる)ものだからである。しかし、映画はことばで勝負するものではない。せりふは聞き取れなくてもいいからこそ、せりふがなくても声が聞こえるからこそ、三船敏郎のような、何を言っているかわからない役者も名優になれるのである。映画のせりふは小説の「ことば」をそのまま踏襲しているらしいが、そうであるなら、なおのこそ映画ではない。小説の「ことば」をそのまま訳者に語らせることしかできないのは、やはり、監督が自分の「ことば」を持っていないからだろう。







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