ジャ・ジャンクー監督「新世紀ロマンティクス」(★★★★)(KBCシネマ、スクリーン2、2025年05月17日)
監督 ジャ・ジャンクー 出演 チャオ・タオ、長江
ジャ・ジャンクーは長江が好きなのだと思う。そうでなければ、あんなに魅力的な動きになるはずがない。ジャ・ジャンクーの映画を見ると、長江に行きたい、長江を行き来する船に乗ってみたいと思う。豪華客船から、生活臭のある小さな船まで、すべての種類の船に。
いま、「生活臭のある」ということばをつかったのだが、ジャ・ジャンクーの映像には、すべて生活臭がある。何かのあつまりで歌を歌いあう女たち。ダムに沈むので、その前に解体される建物。迷路のような路地裏(ではないかもしれないが)の路面の色。なにをとっても、そこには生活のにおいが存在している。主役のチャオ・タオの顔(表情)は生活臭そのものである。
女(チャオ・タオ)は、遠い街へ行ってしまった男を探しに、遠い街へ来る。再会はするが、それだけでおわる。何かがかわるわけではない。ストーリーとしては、たぶんこれだけのことを、長江の風景をふくめて、ストーリーにしないで映し出す。ストーリーは後出しジャンケンのようなものだから、「こういうストーリーでした」と言ってしまえば、言ったものの勝ちである。つまり意味はない。だから、私は、気にしない。
印象的なのは、何よりも長江。水の色、船がつくりだす波の形の変化。
さて。
川(水)と言えば、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」が有名だが、長江を見ていると「ゆく河の流れは絶えずして」はそのとおりだと思うが、「しかももとの水にあらず」は違うと言いたくなる。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水のままだ」と言いたくなる。もちろん、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水のままだ」ということは論理的にはありえない。しかし、その論理は、日本の短い川、ちょっと行けば海につながっている川を見えるから成り立つ論理ではないのか。そして、その「ちょっと行けば」というのは、空間的距離であると同時に時間的な隔たりでもある。
時間をあらわすとき、数学や物理では、しばしば一本の線が描かれる。線上に時間が動いていく。川の水も線を描いて動いていく。だから「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」は「時の流れは絶えずして、しかももとの時にはあらず」、つまり、ある特定の場所での2000年の「時」と、2025年の「時」は「同じ時」ではありえない。それは、たとえば女が別れた男と再会してみれば、以前二人がいっしょにいた「あの時」と「いまの時」が違う、「もとの時」ではないということにもなるのだが。
でも、こういう「論理」は、どうも「肉体」にはなじまない。「あの時」は「あの時」のまま、いつまでも「肉体」に残っているから「いまの時」とぶつかりあい、そこから「渦」も生まれるのだろう。「渦」とは「流れる」ことを拒否して、その場で動くもののことだ。
ジャ・ジャンクーは長江の「渦」を映し出すわけではないが、その「渦」は大きすぎてスクリーンに映し出されないだけなのではないか、という気もするのである。長江の水は確かに流れている。しかし、どんなに流れても「もとの水にあらず」にはなることができなくて、「もとの水のままだ」。ただ「流れる」という運動があるだけで(つまり動きがあるだけで)、「もとの水」そのものである。だって、というのは変だが。だって、だれも「水」にしるしをつけて、それが「流れ去った」ということを確認していない。せいぜいが水に何かを浮かべ、それが流れ去るのを見て「流れ去る」と言っているだけだ。水は何かを運んだだけで、いつも「流れる」をつづけているだけだ。あるいは「まざる」をつづけていると言った方がいいかもしれない。
「時間」とは、そういうものなのだろう。どんなに男が遠くへ行ってしまっても、男と女が愛し合った「時間」は遠くへ去ってしまうということはない。「時(時間の流れ)が忘れさせてくる」ということはない。どんな時間も「時間」はいつも「いま」ととけあって「渦」を巻いている。まざっていて、区別がつかない。数学や物理のように、線を描いて、ここが「あの時」、ここが「いまの時」という具合には処理できない。ある瞬間には「いまの時」より、過去の「ある時」の方が、人間を強く動かす。
この映画には、たぶん、ほかの映画のために撮影したシーンがたくさんつかわれている。それは画面のサイズの変化にもあらわれている。画面のサイズには統一感がない。しかし質的には完全に混ざり合っていて区別がつかない。いつ画面のサイズがかわったのか気がつかない。気がついたら画面のサイズが変わっているということが起きる。そういうことも関係していると思うが、映画には、わざわざ2000年とか、2020年とかの「字幕」が入る。そうでもしないかぎり、いまスクリーンに映し出されているのか何年かわからない、そこには数学的、物理的な時間は「ない」ということだ。数学的、物理的時間は「ない」が、それを拒絶して存在してしまう時間が「ある」。人間は、そうした数学的、物理的時間を無視して、違う時間そのものを生み出しながら生きている。
映画の最後で、主人公はランナーとなって走る。ひとりではない。多くの市民がいっしょに走っている。しかし、彼女は「ひとり」として走っている。「ひとりの時間(彼女だけの時間)」を走っている。たぶん、ほかの市民も。それは、長江の流れそのもののようにも見える。
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(追加)
「字幕」について言えば、主人公の重要なせりふは「字幕」で挿入される。それは「時間」が流れるのを押しとどめる「杭(堰/あるいはダムか)」のようにして、そこにある。そこでは、目に見える形では描かれていないが、やはり「渦」が起きているのだと思う。水平ではなく、垂直の渦。時間を深く掘り下げる渦かもしれない。あるいは、それは時間のブラックホールのようなものかもしれない。みんな、そこに飲み込まれていく。飲み込まれながら、何かを吐き出しつづける。