嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(104) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

* (ぼくは低いところなら)

どこへでも行く 水のよう そして自らのなかに消える

 「自らのなかに消える」とき、そこに残るのは何か。「無我」ということばが浮かぶ。「我」はない、しかし、肉体はない。この「我」のない状態を嵯峨は、こう言い直している。

ぼくはぼくの名もない野花として
人間にむかつて手をさしのべる

 「野花」。しかもそれには「名」がない。「我」とは「名」のことである。「高名」ということばがある。その逆。「低名」の状態へと「ぼく」はかえっていく。そして「野花」になる。
 「名」のないものが「人間」と親和する。そうであるなら、「名」ものない人間は、みな親和できる。手をつなぐことができる。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)