窓の近くに
水でもくんでおこう
「水をくむ」ということを、いま、何人の人がするだろうか。「汲む」ということば、そういう動きをしなくなってから「ひとのこころを酌む」ということもなくなったのかもしれない。忖度する、ということはあっても。忖度というのは「くむ/酌む」ふりをして、自分の利益を図る(組むことで自己利益に誘導する)ことだ。
以前は、水は汲んでおくものだった。いつでもつかえるように。井戸のそばには汲んだ水をためておく「もの」があった。「容器」と呼ぶようなしゃれたものではない。
「窓の近くに」は井戸から離れている。水を温めるのだろうか。日にさらすことで「消毒」効果もあるのかもしれない。何に入っているのかわからないが、汲んだ水の水面がきらきらと日の光を反射しているのが見える。
「汲みあげた水」をただ眺めるだけ(金にもならぬ)だけで、こころが動く。そういう時代がかつてはあったのだ。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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