消えたランプを持つて 目的地を失い ぼく自身を失い
それでもぼくは砂地を急ぐ どこまでも
このとき「消えたランプ」こそが「目的地」であり「ぼく」というものだろう。いや「持つ」という動詞が「目的地」であり「ぼく」と言った方がいい。
「動詞」を失うことができない。それが人間だ。
だから「急ぐ」という運動も「目的地」「ぼく」と言い換えることができる。
「消えたランプ」や「砂地」は青春が呼び寄せる「抒情」である。
この姿は、他人から見ても「不可解」である。なぜ消えたランプを「持つ」のか、なぜ「急ぐ」のか。「ぼく」にも「不可解」であるが、「不可解」は「ぼく」を動かす力なのである。「不可解」(わからない)が「ある」ことを確認するのが「詩」である。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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