水島英己『野の戦い、海の思い』 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

水島英己『野の戦い、海の思い』(思潮社、2019年10月31日発行)

 水島英己『野の戦い、海の思い』に「午後」という作品がある。映画「カルテット」に触れた詩だ。

「上り道も下り道も同じ一つのものだ」とヘラクレイトスは言うが、
上りでも下りでもない道もあったはずだ。
離れ、はずれ、夜の底に息づいている
闇を抱きながら燃えている道。
焼け跡に浮かびあがる欅のみどり。

 ことばと風景が交錯する。ことばによって、風景が生まれる。「焼け跡に浮かびあがる欅のみどり。」は「みどり」が非常に美しい。「欅」では「もの」になってしまうが、「みどり」へとことばを動かすことで「もの」が「抽象」になる。
 この抽象をなんと定義するか。精神(理性)か。あるいは感覚か。あるいは美か。
 苦悩と定義することも哀しさと定義することも、あるいは愛とか絶望と言い直していくこともできる。
 どういうことか。

「あり得たかもしれない」道を靴の底に踏みつけているというのか。
「ここまで来た。こうなってきた」
人気のない昼下がりの公園のベンチに
ただ佇んでいる耳。

 すべては「あり得たかもしれない」なのである。それが抽象である。「これしかない」は具象である。
 問題は、その抽象というものが、いつでも「これしかない」という具象をとおしてしか表現できないということである。
 たとえば一連目で「みどり」であったものが、二連目では「耳」になる。「見た」ものは「聞いた」ものになる。「聞いたもの」は「聞く」ものに、つまり「肉体」にひきもどされ、そこからまた抽象がはじまる。
 なぜ「聞いたもの」は「聞いたもの」として、具体として存在し続けることができないのか。自己と分離した、絶対的他者(存在)として、そこにあることができないのか。
 人間は「あり得たかもしれない」をさまようしかないからである。絶対的他者はいつでも自己を刺戟してくる。自己のなかに「あり得る」もうひとりの自己を刺戟してくる。「私」とはいつでも「他者」であり得るのだ。

「幸福は魂を優れたものにすることによって得られる」
「ソクラテス」の授業ノートに書かれた言葉は、誰のための
箴言だったのか。

 抽象は、ここでは「魂」と言い直されているのかもしれない。それはあまりにも抽象的すぎるから、「言葉」と言い換えられ、「箴言」と言い換えられる。言い直せば「幸福は言葉を優れたものにすることによって得られる」であり、「箴言は言葉を優れたものにすることによって得られる」でもある。
 水島がこの詩で展開しているのは、つまり、ことばの運動そのものということになる。だが、ことばとは何か。

もう授業も哲学もない、
過去も未来もない、
わたしの午後があるだけ。

 「わたしの午後」と呼ばれる「いま」は抽象か、具体か。それは、それを抽象にするか、具体にするかという問題に、もう一度ひきもどされる。

それを引っ掻く弦の音
その不協和にわたしはたえるだろう、あるいは
わたしを捨てて
カタストロフィの音はいつまでも鳴り響くだろう。

 この最後の四行は、この詩の終わりにしては、とても残念な展開である。突然、抽象と具体の衝突が消え、抽象を破って存在してしまう具象が失われてしまう。
 「それ」「その」という指示詞が抽象を加速させるからである。「その」「それ」によって方向が指示される。一連目に書いていたことばにもどれば「上り/下り」のいずれかに限定されてしまう。「上りでも下りでもない」が消えて、その抽象の方向性を「だろう」という推量で確定してしまう。
 推量、推測ではなく、それを求める抽象ではなく、「みどり」や「耳」のような具体で詩が閉じられていたら、と思わずにはいられない。
 タイトルの「午後」そのままに、「午後」で終わればよかったのかもしれない。「午後」というのも抽象かもしれないが「わたしの午後があるだけ。」の「ある」は抽象をおさえつけ具体にかえる概念である。

 もうひとつ。
 この詩にことばの運動としての問題点があるとすれば、一連目の「夜」が二連目で「昼下がり」に簡単に転換してしまうことである。しかも、その「昼下がり」が「午後」として定着してしまう。「それ」「その」は指示詞であるかぎりにおいて、ある方向性をもつと同時に、ある「定着」を求めてくる。
 「それ」「その」という散文の運動を促すことばが、詩を窮屈にしたのだ。



**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」7月号を発売中です。
172ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079705



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com