詩集、小説の「批評」を読んでいると、ときどき西洋の現代思想家のことばが引用されているのに出会う。
その思想家が、批評の対象になっている日本の現代詩、小説について語っているのか。その具体的な作品ではないにしても、最低限、日本の詩や小説、つまり「ことば」について何か語っているのか。そうであるなら西洋の現代思想を引用する意味もあるだろうが、彼らが日本のことばについて何も語っていないなら、そういうひとのことばを引用しても意味があるとは思えない。
その批評家は、最新の現代思想家になったのつもりなのか。
しかし、その最新の現代思想家の思想、つまりことばが気になるなら、私はその思想家の書いたことばを読むだろう。それが翻訳であっても。
でも、批評家が書きたいのは、何? 日本の現代詩、小説への批評? それなら自分のことばだけで書けばいい。西洋思想家のことばを経由しなくてもいい。他人のことば経由の批評を読ませられたのでは、それはだれのことばなのか、わからない。西洋の現代思想家が、日本の現代詩、小説について、ほんとうにそんなことを言うと思う?
引用している西洋現代思想家について「批評」すれば、彼らを研究している日本の思想家からいろいろな指摘がくると恐れているのかも。日本の現代思想家が反論してこないところで、「私は、この思想家のことを知っています」と言っているだけのように思える。