青柳俊哉「あじさいの中の雪」、徳永孝「帰り道」、池田清子「一日」 | 詩はどこにあるか

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青柳俊哉「あじさいの中の雪」、徳永孝「帰り道」、池田清子「一日」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年07月20日発行)

あじさいの中の雪  青柳俊哉

遠い野原いちめんに
白いかすかな野花がむすうにゆれ
夕闇の庭にあじさいの花がはなやいでくる

どこかしらないところからきて
わたしへむすばれた雪
うまれるまえからあるような霧の深みへ
あじさいの花が光をさしかける 

あじさいの花がわたしの中へ染みていくとき
わたしもあじさいの花の中へ染みていく
あじさいの花が死より深いところへおりていくとき
わたしもだれでもないものへうつっていく

いつしか月あかりがさして
あじさいの花の 雪の光の深みへ
かすかな白いむすうの野花がはなをちらせていく

 「三連目が美しい」という声があった。「美しい、と感じるのはなぜ?」と私は意地悪な質問をする。「あじさいと私が一体になっている。特に、あじさいの花がわたしの中へ染みていくとき/わたしもあじさいの花の中へ染みていくの二行に、相互の交流を感じる。それが一体感につながる」。私は、さらに質問する。「一体感をひとことでいいあらわすことばは、この詩のなかにないだろうか」。「わたしへむすばれた雪、のむすばれたが一体感につながっていく」。「そうですね、私も、むすばれると一体感はつながっている、と思う」。
 そして、その「むすばれる」が単に私とあじさいをつなぐのではなく、「うまれるまえからある」「深み」とも関係している。この「深み」は三連目の「死より深いところ」ともつながっている。「死」は不吉なことばだけれど、ここでは「死ぬ」ではなく「うまれるまえ」とつながっている。「死」よりも「誕生」の方が「深い」と青柳は考えているのだろう。
 「あじさいの花が死より深いところへおりていくとき/わたしもだれでもないものへうつっていく」もあじさいとわたしの一体感をあらわしている。結び合って、あじさいはあじさいではなくなり、わたしはわたしではなくなる。融合した何か(既成のことばではあらわせないもの)として生まれ変わる。「うつっていく」は「生まれ変わる」こと、「かわる」こと。
 「染みていくとき、おりていくとき、のとき、は必要ですか? ときがあると、別々の動きのようにも見える」という疑問の声があった。これはむずかしい問題だけれど、「とき」には時間の前後をあらわすと同時に「同時」をあらわすことがある。「染みていくと同時に……」「おりていくと同時に……」ということではないか。
 「一連目と最終連に、むすう、ということばが繰り返される。最初読んだとき、意味がわかりにくかった。漢字の方がわかりやすいのではないか」という意見があった。青柳は「野の花のイメージ、ぼんやりといちめんにひろがっている感じをあらわしたかった」と答えた。
 「……とき」と通じる問題だと思う。「……と同時に」「無数」と書いてしまうと「意味」が明確になりすぎて、意味にひっぱられて読んでしまう。詩は、いままでとは違った「意味」を書き表すものともいえるので、この詩のように、ときにはあえて「ひらがな」にしてしまうのもいい方法だと思う。
 私は、最後の一行も非常に好きである。あじさいとわたしが一体になっているのに、野の花だけが散っていくのは一体感を裏切るような感じと受け取る人もいるかもしれないが、野の花も散ることであじさいと一体になっている。芝居のフィナーレの「祝祭」のように、辺り一面に花びらが舞い散る感じがする。「祝祭」のなかで一体感がいっそう強まると思う。
 私がこの詩で「注文」をつけたいのは、

いつしか月あかりがさして

 この一行。「夕闇」から始まっているから時間的には矛盾はない。しかし、一体感(祝祭)の感動は、「時間」的には一瞬のことだと思う。夕闇があり、月が昇ってくるというのでは「時間」が間延びしてしまう。三連目の「……とき」も時間の経過を順序立てて書いたものになってしまう。「同時(瞬間)」を強調するならば、「月」を出さない方がいいと思う。夕暮れのなかに残っている光のなかへ、野の花もあじさいもわたしも溶け込んでしまい、何か新しいものとして「瞬間的」に生まれ変わるという具合にした方が、詩の完成度が高まると思う。



帰り道  徳永孝

夜空に
海岸へうちよせる波のような


秋のいわし雲 うろこ雲
それよりも
もっと大きく 低く

いまは つゆあけ近い
もうすぐ夏だ
季節の変わりめ
夏にむけて
自然が ゆっくり動いている

ぼくの準備は できているかな?

心配はいらないだろう
しらずのうちに
ぼくの体も夏を予感している

 「書き出しの三行が斬新。そのスケールの大きな動きのなかに自分も入っていく感じが三連目にあらわれている」という的確な感想があった。
 「夏が三回出てきて、すこしうるさいかな」という声もあった。
 そこで、こんなことを全員で考えてみた。
 この詩は、提出直前に二連目の第四行が削除された。修正液で消した跡があった。こう質問してみた。
 「二連目の四行目には、どんなことばがあったと思いますか?」
 「ゆっくり動いていく。ゆったり動いていく、というような、スケールの大きさをあらわすことばだと思う」
 全員が、そう答えた。徳永が、その通りだといった。
 省略されても、ことばは伝わる。そうであるなら、三回出てくる「夏」のどれを省略しても大丈夫だろうか。
 徳永を含め、全員の意見が「夏にむけて」がいらないだろう、で一致した。
 すこし補足すると、「夏にむけて」がなくても「ゆっくり動いている」ということばのなかには「むけて」が含まれている。「動く」という動詞は、その場で動くということもあるにはあるが、たいていの場合は、「いま/ここ」ではない別の場所へ「むかって」動いていくものである。
 繰り返し繰り返し、同じことばをつかいリズムを生み出すこともあるが(青柳の詩の、「染みていくとき/染みていく」はそうした例である)、省略できるとき省略した方がすっきりと読むことができることもある。
 そういう点からいうと、最終連の「しらずのうちに」ということばはおもしろい。ふつうは、こいうい言い方をしない。これも徳永を含めてのことだが、慣用的には「しらずしらずのうちに」という。「しらず」を繰り返す。しかし、徳永は一回しかつかっていない。けれど、意味はわかる。同時に省略したために、ここではことばが凝縮している。この業種区間が「準備はできているかな?」と「予感」を強く結びつける力となっている。ことばが早く動いている。そこに楽しさがある。



一日 池田清子

神経質に
マキタの掃除機をかけながら

体調不良をいいことに

日がな
ゲームに囚われている

 「マキタの掃除機、のマキタがわからない。たぶん、メーカーなのだろうけれど。おもしろいんだけれど」という感想から始まった。コードレスの掃除機らしい。
 しかし、そういう注釈をつけると、わかりやすくはなるけれど、味気なくなるような気もするという感想につながった。
 これは、むずかしい問題である。でも考えないといけない問題だ。
 逆なことから詩を見つめなおしたい。
 たとえば「ゲーム」と書いてある。このゲームはどんなゲームなのか、わからない。「マキタの掃除機」とは違って、「具体的」な感じがしない。テレビゲーム(コンピューターゲーム)を想像するが、漠然としすぎている。
 詩は「マキタの掃除機」のように、具体的(個別的)なものである。ある瞬間に、それしかない、という形であらわれてくるものが詩である。わからないなりに、「マキタの掃除機」は想像力を刺戟してくる。
 でもゲームだけでは、想像力が刺戟されない。
 これは「神経質」にも「体調不良」にもいえることである。池田は「神経質」がどういうことか、「体調不良」がどういうことかわかっている。でも、読者はわからない。手がかりもない。具体的に何かが書かれていれば、「掃除機をかけながら、ゲームに囚われている」という部分もわかりやすくなるのではないだろうか。
 「掃除機をかけながらゲームはできないと思う。矛盾している」という指摘が出るのは、そういうことが原因だ。
 抽象的なことばは、ものごとを整理するには便利だが、詩は「整理」ではないのだから。
 タイトルの「一日」は「一日中」という意味ではなく、不特定の「ある日」という意味だろう。不特定の、日付が関係しない日なのだけれど、個人的には何かがあった日。劇的なことではないけれど、書かなければならない何かがあった日。その「何か」を感じさせることばが必要だと思う。窓から入ってくる光が「白い四角形になっている」でも、「椅子の影がカーテンに触れている」でも、何か、作者がそこにいることを感じさせるものがもっと書かれた方がいい。そうすると自然と「マキタの掃除機」がどんなものか、伝わってくるだろう。









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