嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(80) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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* (それが)

どこだと言うことはできない
散りかかつた花をかろうじて支えている小さな水差のように

 「どこ」と「水差」は同一ではない。「水差」は「どこ(場所)」ではない。だからこのことばの運動は「論理的」ではない。
 しかし「散りかかつた花をかろうじて支えている小さな水差」という存在は美しい。
 「散りかかつた花を支える」は「散らないように支える」という理解すべきなのだろうが、私は「散りかかる」「散っていくこと」を支えると読みたい。散らないように生きているのではなく、生きて、これから散っていく(死んでいく)という最後の運動を支えていると読みたくなる。
 私の読み方は「矛盾」している。散っていく(死んでいく)という運動を「支える」というのは「いのち/生きていく」に反している。
 しかし、詩は、いつでも矛盾したものの中にある。ありえないものが、ことばの運動として「存在する」瞬間に生まれる。それは一瞬だけ見えて、消えていく。



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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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