嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(79) | 詩はどこにあるか

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* (何も考えていなかつた)

松林のはづれの道を歩いていたことは記憶している

 松林の「真ん中」ではなく「はづれ」。中心から外れるということが「考えない」につながる。言い直すと「考える」とは中心を目指すことである。あるいは、ことばを「中心」にあつめること、ことばが散らばらないようにすることである。
 たしかに中心にあつまり、整然とした形をとることばは美しい。「考え(思想)」と呼ぶにふさわしいかもしれない。
 けれど、詩は、どうだろうか。
 爆発して、中心をなくして、どこまでも拡大(拡散)しつづけることばも、また、詩である。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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