嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(70) | 詩はどこにあるか

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K丘

文字にならぬ言葉が 映像が
ぼくをひどく悲しませる

 「映像」としての「記憶」がある。しかし、「文字(言葉)」にはならない。こう書くとき、嵯峨は「言葉」を書きたいと熱望している。そして、そのときの「言葉」とは、「情景」を正確に描写することばである。「情景」とは「こころ」である。
 しかし、これは不思議な「思い」ではないだろうか。
 画家なら、どう言うだろう。「映像」が思い浮かんだとして、それで満足するか。思い浮かんだ映像をそのままなぞれば「絵」になるわけではないだろう。思い通りにならない「色」と「形」が画家を悲しませるだろう。
 音楽家なら、「映像」が思い浮かんだとして(あるいは、ある「音」が思い浮かんだとして)、それをそのまま「再現」できないことを悲しむだろう。

 「文字にならぬ言葉」の前に、「文字になってしまう言葉」がある。それを突き破ることができない。これがいつでも問題なのだ。




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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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