時の幕がゆれ 噴き上げの水が空に消える
死がやってきた
「死」を批評することもむずかしい。死を体験したことがないから、肉体のなかでどういう変化が起きているか、わからない。ことばの「よりどころ」がない。
あえて言えば。
私は「時の幕」を見たことがない。だから「ゆれる」もわからない。しかし、「吹き上げの水」(噴水の水、と考えてみる)が「空に消える」は、見たことがある。「空のなかに消える」のではなく、「空に届かず、地上に落ちる」のだが、この「空に届かず」を嵯峨は「空に消える」という。そのとき消えるのは「水」ではなく「空に届きたい」という気持ちだ。
何かを思うこころ、それが消えることが「死」というのなら、この比喩は切実で悲しい。「ぼくが不在でも」とは、ぼくがいるのに、ぼくを不在としてあつかうだれかがいて、そのためにぼくの「気持ち」がどこにも届かずに消えていく。それが「ぼくの死」だ。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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