2020年05月02日 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

私はだれかと対話するとき、ひとつの基準をもっている。その人を信用するか、信用しないか、の基準だ。
とても単純。
その人が、私に理解できないことを言う。私がそれについて質問する。そのとき「〇〇〇」という本を読め、という答えが返ってくる人を信用しない。
本を読むのは、本の作者と対話するため。
目の前に対話の相手がいるのに、なぜ、その人のことばではなく、別の人のことばを読まないといけないのか。
「〇〇〇」の本に書いてあることを、その人自身のことばで、私に対して語りなおすことができないなら、それはその人自身が「〇〇〇」に書いてあることを理解していないことにならないか。当人が理解していな本を、なぜ私がわざわざ読まないといけないのか。
私はもともと、私の知らないことばを話す人のことを疑ってかかる人間である。
私の知らないことを知っているからといって、その人が正しいという根拠にはならない。
だいたいことばなんて、あてにならない。
たとえば「百角形」と「九十九角形」「百一角形」は、ことばでははっきり違いを認識できる。でも、それを目で判断して区別できる人、手で触って区別できる人がいるだろうか。
もしいるとしたら、それはそういう形を肉体で覚え込んでいる人、何かの職人さんだろう。私は、ことばよりも、そういう「肉体」で現実を判断できる人を信じる。
ことばが危険なのは、ことばを知っていると、事実を知っていると錯覚することがあるということだ。