象徴的なニュース | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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新型コロナウイルスによる院内感染が起きている北海道がんセンターがNHKの取材に応じ、感染経路がわからないことから、すべての患者と職員600人以上の誰もが感染している可能性があると想定して検査を急いでいることを明らかにしました。
(https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20200425/7000020547.html?fbclid=IwAR3K32kZ-DZbwqpH8Db2DSiG0bf_sYuXWNxKwwVQbv1ZMgvcnr79Y1FaTow)

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NHK北海道 NEWS WEB

このニュースは、きわめて象徴的だ。
コロナウィルス感染が問題になったとき、まっさきに言われたのが、「症状が軽い人がほとんどだ。そういう人が受診に殺到すると、救えるいのちも救えなくなる。医療崩壊が起きる」だった。北海道のがんセンターのように、治療の最先端の場の治療が行えなくなる、ということだった。
ところが、その最先端の場が、コロナ感染に苦悩している。
何が失敗だったのか。
最先端医療の現場が対象としている病気が「感染症」ではないのに対し、新型コロナは感染症だということだ。
人から人へ感染していく。病気は「個人」のなかで完結しない。
最先端医療と呼ばれる現場が「得意」としているのは、あくまで「個人限定」の病気である。そういう病気を救うには、たしかに特別な治療かいる。そういう治療ができなくなることは困った問題だ。
感染症は、「個人」で完結しない。死んでも終わりではない。死んだ人に触れる機会がある人は感染するかもしれない。しかし、触れて問題になるのは「死者」ではなく、そこにあるウィルス。しかも目に見えない。
そういう単純なことを見落としたのだ。
感染症の問題は「個人」で完結しない。ひとからひとへ、社会へと広がっていく。
病気で苦しむのは「個人」なのに、「個人」では完結しない問題が、どこまでもひろがっていく。
「医療崩壊」の前に、国民の「健康崩壊」があり、「ほうっておいても治る人が多い。そういう人のために、高額の治療費を払ってくれる人を犠牲にはできない」という経済優先の「医療倫理崩壊」があったのだ。
「からだに異変を感じたら、すぐにきてください。いっしょに病気と闘いましょう」という国民が信じている「医療倫理」が崩壊していて、「感染症対策」が手抜きになってしまった。
感染症が発生したら、すぐに隔離する。病院が足りないなら建設する。感染者を早く発見するために検査を徹底する。
そういうところに金をつぎ込んでいたら、こんなことにはならなかったと思う。
すべては「初動」のミスだ。
初動のミスが拡大し、日本を覆っている。