粕谷栄市「にぎりめしのはなし」、谷川俊太郎「ほん」 | 詩はどこにあるか

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粕谷栄市「にぎりめしのはなし」、谷川俊太郎「ほん」(「森羅」22、2020年05月09日発行)

 粕谷栄市「にぎりめしのはなし」は、いつものように「終わらない」。と、いうか、同じことを繰りかえしている。

 毎日、苦しいことばかりあって、悩みぬいたあげく、
弱り果てて、ある日、とうとう、私は、死んでしまった。
 死んだ私については、一切が、それで終わりだ。この
ことは、それで、何もかも、決着がついたはずだった。
 だが、そうはならなかった。もちろん、誰も、それを
信じることはなかったが、面倒なことに、死んだ私が、
そこに出てきて、そうではないといいはじめた。

 なぜ、終わらないか。どんなことでも「語る」ことができるからだ。死んだら人間は何も語らないが、「ことば」は「死んだ人間が語る」と語ることができる。「ことば」に語ることができないことはないのだ。
 しかし。
 何でも語ることができるはずの「ことば」なのに、ひとつ「苦手」なことがある。自分の言いたいことを、言いたいように、つまり相手に納得してもらうように語るということはむずかしい。
 なぜか。
 「相手」がいるからだ。ひとはそれぞれ「ことば」に対する「自己流の意味」をもっている。それが重なり合わないと、何を言っているかわからない、ということが起きる。
 さらに、「意味」というものは、ある点では「でたらめ」であって、どんなふうに書いても「意味」になる。つまり「意味」から逃れることはできない。だからこそ、「でたらめ」が書けるということである。「でたらめ」を書いても「意味」として受け止められてしまうということも起きる。予期しない「誤解」だ。
 だから(と書くと、飛躍があるか)……。
 「意味」が詩を支えている、「意味」が読者を詩の世界へ引っ張っていく、というのは、間違っている。詩を支えているのは「意味」ではなくて、「意味」にならないものだ。

 では、何か。

 粕谷の場合、「リズム」である。読点の多い文体である。

 毎日、苦しいことばかりあって、悩みぬいたあげく、
弱り果てて、ある日、とうとう、私は、死んでしまった。

 「読点」の区切り、そこに閉じこめられた「ことば」は、それだけでは「わからない」ものが何一つない。「わかる」ことばを区切りながら、次の「わかる」ことばへとつなげていく。この「リズム」が大切なのだ。
 「リズム」を守りながら、「ことば」を少しずつ変えていく。そうすると「ことば」の変化が(意味の変化)が「リズム」によって統一されているように感じられ、「意味の飛躍」が消えていく。「意味」は常識的に見れば「非現実」なのだが、「リズム」が現実的なので、「意味」を現実的と錯覚してしまう。「意味」が連続していると感じてしまう。「リズム」しか連続していないのに、である。「持続するリズム」と言い得ることができるかもしれない。

 で。

 とても奇妙なことなのだが、この「持続するリズム」は単なるリズムを超えて、「持続するリズム」という「新しいリズム」にもなるのだ。読点で「ばらばら」にされてるはずなのに、「持続」がリズムになって、ことばをずらしていく。「意味」をずらしていく。この詩の場合、最後の部分の前に一行空きがあって、そこから「リズム」が微妙に変化する。

 だが、そうではなかった。もう一つ、その後のことが
あるのだ。その日、路地裏の空き地で、その死んだ私が、
木箱に腰かけて、にぎりめしを食っていたという。
 何だか、ばかに淋しそうだったらしい。根も葉もない
でたらめの世間で死んだ私のことだ。かなしいが、どう
でもいいことだ。
 しかし、誰もが、最後は、死ぬからであろうか。なぜ
か、自分のことのように、それが、気になって、誰もが、
いつまでも、そのにぎりめしのことが忘れられないとい
うはなしだ。

 「にぎりめし」という具体的な「ことば」が、強い粘着力になって「持続」に加担している。それまでの「ことば(意味)」を分断するはずの「にぎりめし」が接着剤になって、「さびしい」「かなしい」を引き寄せる。
 そこが、とてもおもしろかった。



 谷川俊太郎「ほん」の三連目。

はじめてかいた
じは
ねとこ
ねこだった
かたちがねこみたいで

 へーっ、と思った。私は、そんなふうに「じ(ひらがな)」を感じたことがない。たしかに「じ」に形はあるが、わたしはそれを形と感じたことがなかった。
 これはたとえばアラビア文字やベトナムの不思議な文字、ハングルでも同じ。私はそれらを読めないが、それは「形」が識別できないから読めないのではなく、音が聞こえないから、その結果として「形」が見えない。
 単純に、驚いた。驚きで、その部分だけが印象に残っている。
 「ほん(本)」も谷川にとっては「かたち」なんだろうなあ。
 私にとっては、本は、「音」がつまった何かである。だからというと変だけれど、さまざまな本の形というのが苦手。いわゆる「全集本」で「かたち(文字の大きさ)」を気にせずに読むのが好きだなあ。
 また、脱線してしまった。






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