伊藤悠子「海面(うみづら)」 | 詩はどこにあるか

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伊藤悠子「海面(うみづら)」(「左庭」44、2020年03月12日発行)

 伊藤悠子「海面(うみづら)」の全行。

海は一面の深い皺を持つ大きな顔

左舷から船尾をまわる
右舷にうつる
人生が変わっている戻っている
だれのものか苦労ばかりの来し方が強風になって吹きつける
ここは足早に行くか
うつむくか
また光のある方へ移動するだけだ
船首にたどりつくと遠くに
薔薇の垣根を越えてやってきた少年の姿が見えた
一人で海を見ている
とても一人だ
行く末をその背にたくせば
ふりにしこの身を海は洗うか

 伊藤(と仮定して読み始める)は船に乗っている。船は海原のただなか。海しかみえない。いや、船そのものが見える。その船上を左舷から船尾へ、船尾から右舷へ、そして船首へとぐるりと巡る。
 そのときに見たもの、そのときに感じたことを書いている。思い出も、当然そこに顔をのぞかせる。「海」は「人生の舞台」の比喩かもしれない。
 苦労を「だれのものか」と書いているが、これは自分の苦労だけれど、すでに「だれのものか」と言えるくらい客観的になっている、ということだろう。どんな苦労も、思い出になってしまえば、それを語ることができる。実際に苦労しているときは語れない。「ここは足早に行くか/うつむくか/また光のある方へ移動するだけだ」と思い、ひたすら動くだけだ。
 そのあとが、とても劇的で、印象的だ。

薔薇の垣根を越えてやってきた少年の姿が見えた

 少年の姿を伊藤は、どこに見たのか。前の行の「遠く」とは、どこか。船首の先端か。岸か。岸と想定するのが自然だが、どうして「薔薇の垣根を越えてやってきた」とわかるのか。薔薇の垣根を越えるところを見たのか。見てはいない。でも、それが「わかる」。「過去」がわかる。
 なぜ劇的(演劇的)か。
 劇とは、突然あらわれる「過去」なのだ。人にはだれでも「過去」があるが、その「過去」を気にして他人と向き合うことはない。「他人の過去」など知らないまま、「他人」と向き合う。しかし、向き合った瞬間に「過去」を感じるときがある。「過去」なのに「いま」として、そこにあらわれているように見えるときがある。
 演劇では、登場人物はいつでも突然舞台に登場する。その人物の「過去」をだれも知らない。しかし、知らないはずなのに「過去」を感じさせる役者がいる。これを存在感がある役者という。そして、そのとき「知らないはずの過去」はいつかどこかで「自分が経験した過去」につながっている。何か自分の知っている「過去」を役者の肉体を通じて感じてしまう。そういうことがある。
 いま起きているのは、それだ。
 少年が「薔薇の垣根を越えてやってきた」と「わかる」のは、伊藤に「薔薇の垣根を越えて」海を見に行った(海を見るために岸へやってきた)記憶があるからだ。少年と書かれているが、それは少年ではなく、伊藤自身なのだ。
 「苦労」が「だれのものか」わからなくなったのとは正反対に、「遠くに見える少年」は「伊藤そのもの」だと「わかる」。記憶(体験)が不思議な形で交錯する。

一人で海を見ている
とても一人だ

 「一人で海を見ている」は船上からみた少年の姿であり、同時に「一人で海を見ていた」伊藤の記憶である。ふたりは重なる。融合する。
 だから「とても一人だ」と言うことができる。伊藤は少年になって「一人きりだ」と感じる。「とても」という「主観」をさらに付け加える。「主観(いつの感情)」が噴出してきてしまうのだ。
 船上にいて、伊藤は「一人で海を見ている」。そして「とても一人だ」と感じている。それが「遠い」日の伊藤に重なる。少年のように、あの日、伊藤は「一人で海を見ている」、あの日「とても一人だ」と感じたことを思い出す。「いま」として。
 このときの、私が挿入した「少年のように」はいろいろな意味がある。その一つは、あの日、伊藤は自分を「少女」として海をみつめたのではない。だれか、自分ではない人間になって海をみつめたのだ。「だれかのもの」の「だれか」が、そこには含まれている。客観的になろうとする「意志」が伊藤を「少年」にさせるのだ。
 伊藤が「遠くに」見るのは「少年」でなければならない。「少女」であってはならない。「少年」だからこそ、伊藤は「少年」と一体になることができる。

 ここには「うそ」がある。その「うそ」とは「虚構」のことである。「虚構」をとおして、ことばになりにくいものがことばになる。ことばとはもともと「虚構(うそ)である。書き出しを読み直すだけでいい。

海は一面の深い皺を持つ大きな顔

 海は「顔」ではない。「顔」は比喩。比喩とはうそであり、虚構だ。この「わざと」動き始めることばが、虚構(うそ)を突き破って「事実/真実」をつかむとき、それを詩と呼ぶ。それが、先の三行に結晶している。

薔薇の垣根を越えてやってきた少年の姿が見えた
一人で海を見ている
とても一人だ








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