嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(12) | 詩はどこにあるか

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* (ぼくは海へ向う旅びとであつた)

ごうごうと鳴る松林がどこまでもつづいていた
そのなかへ消える遠い道があつた

 「ぼくは海へ向かった」ではなく「ぼくは海へ向う旅びとであつた」と嵯峨は書く。「ぼく」の「動詞(動き)」を書くというよりも、「ぼく」を「旅びと」と虚構化することを優先している。そのとき「ぼく」だけが虚構化されるのではなく、「海」もまた虚構化されていると考えるべきだろう。
 それは「道」にも影響する。「道」はほんらいなら「海」へつづくはずだが、「海」はつづかず「松林」のなかに消える。あるいは「松林」の「ごうごうと鳴る音」のなかに消える。しかし、それは実際には「消えない」。
 それらはすべて「遠い」という認識を明確にするためのことばなのだ。
 「遠い」何か、それは「虚構」のなかで浮かび上がる「真実」のようなものだ。そんなものは存在しない。けれど虚構によって存在するように見えてしまう。「ぼく」を「旅びと」であると言い聞かせる(自分に嘘をつく)ときに、虚構ははじまる。

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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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