嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(43) | 詩はどこにあるか

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友よ

物によつて
語によつて
どれだけ 時がぼくから失われたか

 「語」を「言葉」と書き換えれば、この詩は一連の作品とひとつづきのものになるが、「物」と「語(言葉)」はどう違うか。「ことば」をとおして「もの」は「ぼく」のものになる。内面化される。これを、嵯峨は「獲得」ではなく「失われた」と書くのだが、「時」が失われたのか「ぼく」が失われたのか、簡単には言いきれない。
 「物」と「語」が同格であるように、「時」と「ぼく」も同格である。入れ替えが可能だ。あるいは、すべてが入れ替え可能だとさえ言えるだろう。
 そういう意味では、ここに書かれていることは「完結」している。あるいは、閉ざされている。完結し、閉ざされた世界では「論理」はどう展開しても「論理」であることに変わりはない。





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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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