嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(33) | 詩はどこにあるか

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どこを叩いても鐘は鳴らぬ

沈黙にすつぽり覆われているのか
魂しいの不在か

 「沈黙に覆われる」と「魂しいの不在」が同等なもの(比喩として交換可能なもの)として書かれている。
 「覆う」という動詞に注目すると、不思議なものが見えてくる。
 「覆う」は「外側から覆う」、つまり「内部を覆う」ということ。「魂」は一般的に「肉体の内部」にあると考えられている。「魂」が不在ならば、それを「覆う」ということは不可能である。
 また「内部(魂)」が不在なら、「覆う」という動詞は、動詞のままでは存在し得ない。運動を封じられる。動くことができない。これが「沈黙」である。何かが、動こうとして動かない。そういう緊張が「鐘」という「もの」になっている。



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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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