中上哲夫「ニューヨークの地図」 | 詩はどこにあるか

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中上哲夫「ニューヨークの地図」(「みらいらん」5、2020年01月15日発行)

 中上哲夫のことばのリズムも、私は好きである。ことばが移動していく、そのリズムが。
 「ニューヨークの地図」の全行を引用してみる。

ニューヨークの地図を片手に
詩や小説を読んできたので
いまや年老いたニューヨーカーみたいな気持ちだ
船でエリス島にではなく
空飛ぶ鉄の船でラ・ガーディア国際空港に上陸したわたしは
ケルアックのようにあらゆる通りとあらゆる路地を歩き回りたかったのだけど
だれとも話をせず
バスに乗らず
地下鉄に乗らず
ギンズバーグを尋ねず
(メモをなくしてしまったのだ)
ベーグルを食さず
ましてやマリファナを喫わず
バーやカフェ、カフェテリア、コーヒーハウス、ジャズスポットを巡回せず
薄汚れたホテルの部屋で蟄居していた
(東海岸を寒波が襲っていたのだ)
思い出したけど
一日
時差まみれの足でホテルのまわりをよろよろと歩いて
「プレイボーイ」と三日遅れの「読売新聞」を買い求め
「少年ジャンプ」をながめながら
横町のラーメン屋で味噌ラーメンをすすった

ソーホーへタクシーを飛ばして
あるレストランである女性とビールを飲んだ
(彼女は何者だったのか)
結局
ケルアックとギンズバーグがコロンビア大学で起こしたような発火もなくて
あわててボストン行きの飛行機にぶら下がったのだった

 ニューヨークで体験したことのうち、たぶん、いちばんどうでもいいことだけを書いている。「横町のラーメン屋で味噌ラーメンをすすった」というのはニューヨークでもできることである。なぜニューヨークなのか、わからない。
 しかし、その、いちばんどうでもいいこと、ニューヨークらしくないことが、ニューヨークという「意味」を叩き壊して、「無」のなかから、ニューヨークにあるものを生み出す。そのとき生み出されるものは、なんといえばいいのか、まったく新しいものではなく、知っているものが「生み出しなおされたもの」なのだ。
 だから、詩なのだ。
 この「生み出しなおす」ということが、「移動」なのだ。単に人間が(中上が)場所を移動するのではなく、中上がそこに存在することによって、「もの」そのものが、それまでの「枠(意味)」から解き放たれて、新しくそこに「存在」しはじめる。この固定を破壊(解体)し、無を経て、生まれ変わるときの「経る」ということが「移動」なのだ。それを促すのが中上自身の移動だ。中上自身の移動(旅)は一種の「産婆術」なのだ。
 場所はどうでもいいというと言い過ぎだが、場所がかわることで起きる中上の変化が、その場所を構成する「もの」を変化させる。こういう変化は、「新しいもの」ではなく「すでに知っているもの」を描くことでしか表現できない。つまり、いちばんつまらないものを取り上げるしかない。いちばん「肉体」になじんだものを書くしかないのだ。そうしないと「生み出しなおす」ということにならないのだ。
 ここに、とても自然なリズム、生きている感じがあふれている。

 またそのリズムは行の構成そのものにも反映している。
 「船でエリス島にではなく」からの三行が特徴的だが、行がだんだん長くなる。しかし、その変化は「見かけ」の変化であって、読むときの(たぶん書くときの)「時間」は「同じ」。一行という時間(?)のなかでことばが加速してゆく。時間そのものはかわらず、ことばのスピードが変わる。もちろん実際に声を出したり、書いたりする時間は変わるのだろうけれど、「肉体」のなかにのこる時間の量はかわらず、ことばのスピードが変わる。
 しかし、加速しつづけるわけにはいかないから、いったん減速し、また加速する。そのたびにカーブをまがる(角をまがる)みたいに風景が変わるのも自然だ。どんなに知っている場所でもスピードを変えれば、そこにあるものが違ったものとして生まれなおされてあらわれる。
 途中にはさまれる(メモをなくしてしまったのだ)のような括弧入りのことばは、バックミラーで見る風景か、いったん振り返って見る背後の風景か、時間のなかの「方向」を一瞬逆転させる。そのリズムもいいなあ。緊張感が一瞬ほどけ、それがさらに新しい緊張感を生み出す。 

 日本語は音の高低(イントネーション)によって支配されているけれど、中上の詩を読むと、日本語にも「音の強弱」によるリズムがあるということがわかる。この「音の強弱」は「肉声」のものではなく「意識」のものだろうけれど。
 あるいは中上のなかには「英語」があって、英語の強弱のリズムが日本語に影響を与えているということかもしれないが。
 でも、こういうことはあまり厳密に考えるのはやめておこう。「印象」をメモしておくだけにしよう。




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