2020年01月09日(木曜日) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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2020年01月09日(木曜日)

 和辻哲郎『古寺巡礼』の「道」、その2。

 「十二」。法華寺十一面観音について書いている。光明皇后の伝説について触れたあとの部分。

「あった」か「なかった」かの問題よりも、「あり得た」か「あり得なかった」かの問題に興味を抱く人に対しては、これらのことも何ほどかの意味を持つに違いない。
                               (135ページ)

 和辻は、「あり得た」か「あり得なかった」かに興味を持つ人である。この「あり得た」か「あり得なかった」かは、「事実」ではなく「構想力」の問題である。
 「構想力」ということばは、別の場所で、こんな具合につかわれている。「七」、聖林寺十一面観音について書いている。

かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうして自由な、構想力の結晶なのである。
                                (68ページ)

 「十一面」は「あり得る」のである。では、どこに。「構想力」を、和辻は、こう書き換えている。

人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核まで突き入り、そこにつかまれた人間存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。
                                (69ページ)

 「構想力の結晶」「一つの形像に結晶せしめようとした」と「結晶/結晶する」ということばが二つの文章をつないでいる。そして、そこに「人間存在の神秘」ということばが挿入されるのだが、この「あり得る」ものとしての「人間存在の神秘」こそが、和辻にとっての「道」なのだ。それは、「心の奥底」「体の中核」という、いわば「見えない」ところに、ある。
 和辻は、それを探している。「ことば」で、追い求めている。和辻は「倫理」の人であるが、同時に「哲学」の人として迫ってくるのは、そのためである。

 忘れられない本がある。忘れられない「ことば」がある。「意味」ではなく、「ことば」がある。それは、私と他人をつなぐ。そういうことが「あり得る」。その「あり得る」ものからすべてが生まれてくる。そういう「あり得る」ものとして「道」。
 「神秘」ということばは、私は好きではない。私は、その「あり得る」を「神秘」ではなく「ほんとう」としてわかりたい。