わたしは東京行特急に乗つている女に電報を打つてきたばかりだ
「山陽」は山陽線ということか。このとき「わたし」はどこにいるのか。東京にいるときも、「東京行特急」というかどうか、私は、首を傾げてしまう。
そして、ここに「九州弁」を感じるのは私だけだろうか。
嵯峨は宮崎県の出身。詩は共通語で書かれ特に「九州弁」というものは見当たらないのだが、この「東京行」にそれを感じた。
私の感じでは九州のことばは「起点」が必ずしも「自分」にない。主観的ではない。奇妙に客観的なときがある。たとえば10時50分を、英語のように「11時前10分」というような言い方をする人がいる。共通語なら「11時10分前」だろう。そしてこのときは共通語は「11時」が強調されるのだが、こういう「強調(主観)」を好まない風潮があるように思う。
さて、問題の一行。
私は特急で東京へ向かつてきている(来る)女に電報を打つてきたばかりだ
私が東京にいるなら、そういう表現にしないと、落ち着かない。「東京行特急」では、私は山陽線よりももっと西、つまり九州(宮崎)かどこかにいることになる。
この詩のつづきは、
野原にむかつてわたしは七面鳥を放ちたい
それはラジオの声がはげしい風圧に弓なりにしなつて
窓からとびこんできたためではなく
夕日が寒暖計工場の上を通つているためでもない
と奇妙なことばの動きをするのだが、それが「東京行特急」にも反映されているとは考えにくい。
これは私だけの感覚かもしれないけれど、すこし気になった。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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