嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(56) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

* (ぼくが道に迷つたのか)

あるいは炎えあがる砂漠の道が行衛に迷つたのか

 「行衛」は何と読むのか。「ゆくえ」と読んでいいのかどうかわからない。
 こういうとき、手がかりは「動詞」である。
 ぼくが「迷う」、砂漠の道が「迷う」。
 道に迷うことは誰もが体験する。しかし、このとき「迷う」が成り立つのは道が動かないからである。「選択」を間違うことを迷うという。
 逆に道が「迷う」としたら、どういうときか。人間が動かないときである。人間が動かないときは、どんな道も道ではなくなる。人間は(ぽくは)、そのとき、どうしているのか。

一頭の獅子が逞しく立つている

 獅子になって、そこにいる。ぼくが「迷つたのか」は反語である。迷ってはいない。ぼくは、ここに「逞しく」立っている。迷っているのは道の方である。獅子は比喩ではなく「逞しく」の修飾語なのだ。











*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)