あるいは炎えあがる砂漠の道が行衛に迷つたのか
「行衛」は何と読むのか。「ゆくえ」と読んでいいのかどうかわからない。
こういうとき、手がかりは「動詞」である。
ぼくが「迷う」、砂漠の道が「迷う」。
道に迷うことは誰もが体験する。しかし、このとき「迷う」が成り立つのは道が動かないからである。「選択」を間違うことを迷うという。
逆に道が「迷う」としたら、どういうときか。人間が動かないときである。人間が動かないときは、どんな道も道ではなくなる。人間は(ぽくは)、そのとき、どうしているのか。
一頭の獅子が逞しく立つている
獅子になって、そこにいる。ぼくが「迷つたのか」は反語である。迷ってはいない。ぼくは、ここに「逞しく」立っている。迷っているのは道の方である。獅子は比喩ではなく「逞しく」の修飾語なのだ。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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