ケン・ローチ監督「家族を想うとき」(★★★★★)
監督 ケン・ローチ 出演 クリス・ヒッチェン、デビー・ハニーウッド、リス・ストーン、ケイティ・プロクター
この映画の最後は非常に複雑だ。複雑にさせているのは原題の「Sorry We Missed You 」ということばにある。私は英語を話さない。イギリス人の友人もいない。だから「誤読」するしかないのだが。
もし父親が家族を捨てて家を出ていく。もちろんよりよい収入を求めて出て行くのだろうが、そのとき「we」と書くかどうか。主語は「I 」だろう。さらに過去形ではなく「I will miss you 」(きみたちが恋しくなるだろう)ではないのか。
なぜ「we」であり、また「missed」と過去形なのか。
手がかりは映画の中にある。
父親が窃盗集団に襲われてけがをする。病院へゆく。妻が付き添っている。夫の会社から苦情の電話が入る。その電話を奪い取って、妻が叫ぶ。「私たち一家をばかにしないで」(英語で何と言ったかわからないが、字幕は、そういう感じだった)。このとき「私たち(we)」がつかわれている。「私を」ではなく「わたしたちを」。
さらに、父の車のカギを隠した娘が、カギを渡すときこんなことを言う。「このカギさえなければ、元の家族にもどれると思って隠してしまった」と。元の家族は「私たち(we)」であり、その「元の」につながるのが「missed」なのだ。「昔の家族がなつかしい、いまはどうしてこんなのだろう」と想い続けている。少女の気持ちは「missed」ではなく「miss」という「現在形」だと想う。
息子の反抗も同じだ。「昔のおとうさんにもどって」というようなことを言う。昔が恋しい。
これは父親も、その妻も同じである。いまは苦しい。昔がなつかしい。
それが最後で「We Missed You 」と過去形に変わる。「過去形」に変わるのは(あるいは変えるのは、と言った方がいい)、主語が「I 」(ひとり)ではなく「we」(複数、私たち)に変わったからだ。父は、いったん家族を捨て去る。けれど、そのとき父は「ひとり」ではない。「私たち」であることを強く実感している。もう、負けない。「私たちをばかにするな」という妻のことばの「私たち」が生きている。「昔が恋しい」(昔がなつかしい)を通り越して、「かつては昔がなつかしい」だった。いまは家族が「団結」し直している。いろいろなことがあって「we」にもどっている。だから「過去形」で語るのだ。
「未来」が見えない結末だが、その見えない「未来」に立ち向かう気持ちが、「いままで」を「過去形」にしてしまう。そこに希望がある。生きていく力がある。父はいったん家族を捨てる。家族はそれを止めようとする。けれど受け入れる。「we」は形式的には破壊されているが、こころは「we」にもどっている。
この複雑なことばの中に、ケン・ローチのふつうの人々によりそう「祈り」のようなものを感じる。
それにしても。
世の中はいつからこの映画に描かれるように、ただひたすら合理主義を追求するだけのシステムになったのか。しかも、それは「資本家」にとっての合理主義である。利益が出るなら利益を分け与えるが、利益が出ないならそれは労働者の責任、というシステムである。ひとりひとりには「家族」がある。つまり、「事情」というものがあるのだが、それは「合理主義的契約」のなかには含まれない。「事情」を捨てる。「事情」をすべて「自己責任」にしてしまう。
そうしたなかにあって、訪問介護の仕事をしている妻と向き合う、介護される人の生き方に、何か救われるものがある。介護される老人が、妻の髪をブラッシングすることを「生きる喜び」にしている。ひとと触れ合い、人の役にたつ。それはブラッシングは単に髪をととのえることではない。肉体が触れ合うことで疲れをとかしてしまうのだ。老人に髪をまかせている妻の姿は、髪を梳いてもらっているというよりも、ゆったりと湯船にひたっているような解放感にあふれていた。
そこには、もうひとつの「家族」(we)がある。
父親のところに警察から電話がかかってくる。息子が万引きをしたのだ。それを知った同僚が父親を心配する。父親の「家族」を心配する。そこにも「we」(家族)の姿がある。
「家族」の経済的敗北を描きながら、経済的敗北には負けないという「意思表示」を感じる。「負けさせないぞ」というケン・ローチの怒りのこもった、苦しくなるけれど、同時に胸が熱くなる映画である。
(2019年12月15日、KBCシネマ1)